転生夫婦譚 SS-1

お題.com 「風景」にまつわるワード より


“静かな夜”  中学3年生の夏

いつも騒がしい妹が、今日は部活の合宿で留守。おかげで家が静かだ。
『おやすみなさい』と両親に告げて二階へと上がれば、聞こえてくるのは虫の声だけ。

私は自分の部屋のカーテンを開けて、斜向かいの家の方を見た。
ここからはあまりよく見えない二階の角部屋。うっすらと光が零れているその窓。
今日も遅くまで勉強しているのかな。それとも本を読んでいるのかな。

あまりに静かな夜だったから、ここまで届くはずのないシャープペンシルの音が聞こえてきたように感じて…私は少し切なくなった。
受験が近づくということは、一緒にいられる中学生活がもうすぐ終わるということでもあるから。
同じ高校に行かないというのは二人で決めたことだけど、寂しくならないわけじゃない。

…無理はしないでね、みーくん。


“旅行”  2025~6年頃?

時任家は大家族である。
光哉、皐月、光哉の両親、そして光哉と皐月の子供が5人。
そんな大人数だと、旅行に行くにも一苦労。

「私たちも参加していいのかしら、こんな素敵な旅館」
皐月の母、祐子は温泉旅館のパンフレットを見ながら申し訳なさそうに呟く。
今朝、仕事に向かう前の義理の息子から爽やかな笑顔で『久しぶりの家族旅行ですから、お義母さんたちも一緒に行きましょう』と差し出されたのだ。

しかし、
「むしろ参加してくれるとありがたい!」
とキラキラした瞳で宣言する娘の様子を見ると、
(そうよね、子供を見る人手が必要よね)
そう祐子は思い直す。浮かぶのは5人の孫たちの顔。みんないい子だが、それでも5人もいれば騒がしいし手がかかるのだ。

「朝食がビュッフェスタイルじゃないのが決め手なのよ、ケイとタイがまだ小さいから落ち着いて食べられないもの」
嬉しそうに語る皐月を眺めつつ、
(光哉くんは本当に、皐月のためなら何でもするのね…)
小学生の頃から全く変わっていない光哉に、微笑ましさと感謝と、そして僅かな危うさを覚える祐子であった。


“ハンドルを握る手” 23歳の4月末

「後ろに乗って」
皐月はそう言うと、車のドアを開けた。
「助手席じゃなく?」
光哉が尋ねると、
「後ろの方がよく眠れるでしょ」
と皐月はすました声で答えた。

医学部5年となり附属病院での実習が始まった光哉。当然国家試験の勉強もあるので、日々忙しくしている。そんな中、今日は皐月が大学まで光哉を迎えに来たのであった。

光哉は乗り込んでドアを閉めると、
「別に眠るつもりはないけど」
運転席に座った皐月にそう返す。
「そう?今から慣れておいたほうがいいと思って、来たんだけど」
皐月は振り返ることもなく、シートベルトを締めながら言う。
「慣れておく?」
「研修医になったら、忙しさはこんなものじゃ済まないんでしょう?迎えに行くよ、みーくんが疲れてるときは」
「皐月…」

光哉が研修医になるのは早くて2年後なのに、皐月は一緒にいるのが当たり前のように将来のことを話し、未来の光哉のことを心配する。
そもそも、光哉の通学は片道が電車15分・バス10分、決して長いものではない。そんな僅かな時間でも一緒にいる時間を増やそうと迎えに来てくれること自体、深い愛情表現ではなかろうか。

「…運転中じゃなかったら抱きしめてたのに……家帰ってからにするよ」
光哉はそう言って溜息をつく。
「いいから、休んでて!」
動揺したのか、ハンドルを握る皐月の手が小さく跳ねた。


“風でふわり、君の麦わら帽”  光哉28歳、鈴2歳くらい、5月

『何か物が落ちるのが赤ちゃんの笑いのツボである』という話をどこかで聞いたことがあるが、あながちそれも間違いではないのかもしれない。

「パパ、ぼうし」
「帽子」
「ふわーして」
「パパにはできないよ、風さん次第だね」
「む…」
「そんなに都合よく飛んでくれるかな」

娘の鈴と公園に散歩に来たところ、娘の麦わら帽子が風でふわりと飛ばされた。慌てて追いかけてすぐに拾い上げたのだけれど、どうやらそれが鈴のツボにはまったらしく…また風で飛ばされるのを、我が娘は瞳をきらきら輝かせて待っているのである。

「ふわー」
なかなか風が吹かないことにしびれを切らした2歳児は、麦わら帽子をポンと投げてしまう。
「帽子を投げちゃだめだよ」
慌ててキャッチして、頭に被せた。
「かぜ…」
「なかなか吹かないね」
「…」
「時計の長い針が3のところまで来たら、帰っておやつにするからね」
「…かぜさん…」
「あまり遅くなるとママが心配するよ」
「ん~」

難しい顔をして空を見上げ、姿の見えない風を待つ鈴はとても可愛らしい。
ちょっと早いけれど、扇風機を出してあげようか。
『甘いお父さんね』と、皐月は笑うだろうな。


“雨上がりの朝に” 2024年頃

夜遅くまで降り続いていた雨はすっかり上がって、太陽が顔を見せた日曜日の朝。
「…まずい!」
飛び起きた俺は、慌てて洗濯機に服を放り込んで洗い始めた。

昨夜、皐月に釘を刺された。
『今日雨でなかなか洗濯物が乾かなかったから、絶対に明日の朝は洗濯を3回やらないといけないの』
『そうか』
『乾燥機と除湿器を使っても追いつかなかったの』
『いつも大変な家事をありがとう、皐月』
『だから朝寝坊は許されない』
『ああ』
『…そこのところ配慮して、お手柔らかに』
『わかった』
そう。釘を刺されたのに。
お手柔らかに、というのは……無理だった。

結果、皐月は起きられなくて今も夢の中。
絶対に怒られる。弁解する余地もない。皐月の体力が尽きるまで終われないなんて、いい歳して何やってるんだ俺は。どれだけエロオヤジなんだ。
…とにかく、謝るしかない。今日が休みでよかった。

「あれ、お父さん?」
早起きの次女・花が、ドアを開けて顔を出す。
「あ、ああ、花、おはよう」
「お母さんは?」
「ちょっと疲れてるみたいだから…寝かせておいてあげよう」
「あれ、ケイかタイが夜泣きした?私の部屋までは聞こえなかったけど」
「いや…」
花は賢いから、そのうち見破られそうだ。

皐月は8時過ぎてようやく起きてきた。昼前まで謝り続けて、ようやく許してもらえた。