鶴旦那は恩返しより溺愛したい 第2話

第2話 村の事情

本来生まれるべき家族と一緒に暮らせるようになった市次郎。しかし早々に兄・藤一郎の暮らす離れに呼ばれ、愚痴を聞かされていた。

「ったくなんで俺が妻と別々に…」

「す、すみません」

「市次郎が悪いんじゃない、あんなに沢山部屋があるのに人ひとり下宿させられない庄屋が悪いんだ」

ぶつぶつと藤一郎はくだを巻く。素面である。

「立派な方とお聞きしましたが」

「当代はな!問題は若旦那の徳兵衛とくべえだよ!」

「…気難しい方とは聞いています」

若旦那が人間不信で家に若い男を入れたがらないから、市次郎は下宿がかなわなかった。だが堂々と呼び捨てとは、只事ではなさそうだ。

「庄屋様は立派な方だよ、そして奥方様も少し気が弱いけど優しい方だ、でも…その気の弱さのせいで、つけこまれちまった」

「え?」

「徳兵衛を育てた『ばあや』にだよ…表向き奥方様を立てているように見えて、裏で気に入らない女中をいびって入れ替えて、とんでもないババアだ…若旦那に頼んで贅沢してるみたいだな、俺達分家も倹約のために麦や粟を食ってるのに、白まんまを食ってるって自慢してた…他にもやってるだろうな、奥方の着物を買う金をちょろまかすとか…女中の給金であんな良い着物が買えるはずがない」

「じょ、女中が、ですか…」

米は年貢として出すものだから自由に食べられない。それは市次郎が神社で学んだ農村暮らしの基本中の基本だった。市次郎がそれを聞いたときに、雀たちに『田の米をあまり食べないであげてほしい』とお願いしたいくらいだと思うほどだったのに、それを捻じ曲げた!?市次郎は衝撃であった。

「あー腹が立つ、罰が当たらないかな」

「神様は見てると思いますが…」

「あ、そうか、お前神社の縁で来たんだったな、ごめん」

「神主様に叱っていただくことも考えますが…何という老婆なのですか」

「……何ていう名前だったっけな?表では『ばあやさん』、裏では『ババア』と呼ばれてるから忘れた」

「はあ…」

強欲の代償に村人たちから名前を忘れられるほど憎まれて、それでいいのだろうかと市次郎は思う。しかし、人格者である庄屋がそのような問題を抱えていたとは聞かされていなかった。もしかしたら優しすぎるがゆえに息子が懐いた『ばあや』を叩き出すことができないのかもしれない。

「やれやれ」

ごろんと横になった藤一郎の顔を、市次郎は眺めた。こうして見ると自分によく似た顔立ちをしている。兄弟だと言えば誰も疑わないだろう。ただ、藤一郎の肌には日焼けによるシミがあり、手もごつごつしていて、今まで人として生きてきた時間の長さを感じるものであった。

(兄さん…)

しんみりしていた市次郎だったが、藤一郎は遠慮なくその情緒を壊してくる。

「あー…もし市次郎が佐奈と恋仲だったら、親父を言いくるめてお袋を部屋に連れ出させて、二人で夜這いかけたんだけどなあ…俺が紺をこの部屋に連れて来れば古屋は寝たら朝まで起きないし、お前も」

「いやいやいやいや」

いきなり刺激の強すぎる話で、市次郎は真っ赤になり慌てふためく。というか四十前後であろう両親も未だにお盛んなのか?仲が良いとは感じていたが、そこまで知ることになるとは想定外だった。

「…お前、結構な美形なのに経験ないんだな…俺とあまり歳変わらないだろ?」

「……色々といっぱいいっぱいだったもので…歳は十九、です」

「夕飯の時に佐奈もお前に見惚れてただろ?兄妹同然に育ったからそれくらいはわかる、佐奈はお前が本気で口説けば落ちる」

「そ、そうですか!?」

兄が言うならそうなのだろうと市次郎はぱっと顔を輝かせる。

「嬉しそうだなあ…」

藤一郎曰く、この村で政略結婚をするのは庄屋本家くらいのもの。同じ村の民で相思相愛であれば、仮に事後報告になっても多少は大目に見てもらえるらしい。ただ、無理矢理であれば百叩きの上で代官に突き出すのが村の掟だそうだ。

「お佐奈さんが俺…いや、私を好きなら、どれだけ幸せか」

「一目惚れか」

「…」

「わかるぞ、俺も紺とは幼馴染なんだけど…佐奈も同じ幼馴染ですごいいい子なのはわかってるのに全然違うんだ、何でだろうな?自分でもよくわからないが、紺でないとダメだった」

天井を見上げながら藤一郎は呟く。彼の妻に対する愛情はとても深かった。

ここが縁結びの神に見守られた土地で、兄夫婦も神に結びつけられた夫婦だからというのはあるだろうが、一番は仲の良い両親のもとで育ったからだろう。親から受け継いだ資質とも言うべきだろうか。

そして市次郎は、その資質と番を大切に愛し続ける鶴の特性を両方持っている。今日は少し会話をしただけなのに、佐奈を恋しく思う気持ちは募るばかりであった。

しかし、藤一郎の言葉がそれを止める。

「喪中だからな、佐奈の結婚は先延ばしだな」

「喪中…」

「俺と紺のときは紺の親父さんが亡くなって、祝言が一年延びた…佐奈の場合は祖父だし生活がかかってるからもう少し早くできるだろうけど、半年は無理だな」

そうだ、と市次郎は気を引き締める。たった一人の身内を亡くしたばかりで悲しんでいる佐奈に言い寄るなど、不埒なことをしたら一生嫌われてしまうかもしれない。そうすれば自分はきっと生きていけないだろう。昼に少しだけ見られた、恥ずかしそうに微笑む佐奈…彼女の笑顔をずっと見ることが自分の望みなのだから。

「私は頑張って耐えます」

「結婚したら反動くるぞ?」

「…そうなんですか」

「実感だ」

「はあ…」

その日は兄弟でくだらない話をしながら、眠りについた。

■□■

それから市次郎は、自分の住む小屋ができるまでたびたび藤一郎の愚痴に付き合った。運命が正しければ兄弟として生まれるはずだった二人なので、やはりとても気が合う。同じ村中地区に住む同じ年頃の若い衆・利造と伝吉を紹介してもらい、一緒に飲み会もした。

勿論仕事も毎日こなしている。そうしているうちに、藤一郎は効率よく作業をこなしているので愛妻と過ごす自由時間を増やせているのだとわかるようになった。人として佐奈と長く過ごすためには、やはり兄を手本にすべきだ、そう市次郎は思う。しかし、今はそれは夢のまた夢である。

「お前意外と手作業より力仕事の方が得意なんだな」

「見た目だけだとものすごく繊細そうなのに」

「う、不器用ですまない」

市次郎は草履を編むような細かい作業が苦手だった。木を運び割って薪にする作業は軽やかにこなすことができたので、そこはやはり渡り鳥の体力である。

「お佐奈ちゃんが器用だからいいんじゃねえの」

陽気な利造は笑う。

「お似合いだと思うぞ」

落ち着いた伝吉も、市次郎を応援してくれた。

幸いにもこの二人は佐奈を狙ってはいなかった。市次郎は自分の性格的に恋敵と仲良くすることは絶対に無理だと悟っていたので(これは鶴の本能もあるだろうが)、せっかく出来た友を失うことがなくて心から安堵した。伝吉は既に妻帯して老母も含めた三人で家に暮らしており、やはり夫婦仲は良好のようだ。

しかし、利造の方の言うことはちょっとばかり不穏であった。

「俺が狙ってるお美代ちゃんは庄屋様の屋敷で奉公してるんだけど、ちょっとばかりお佐奈ちゃんとは見た目が似てるかな」

「そ、そうなのか?」

「お佐奈ちゃんよりか細くて、こう、守ってあげたいというか…家も貧しくて、親父さんが病気なんだと」

「苦労してるんだな」

「足元を見られているとはいえ、あの怖いババアの下でよく働けるもんだよ」

藤一郎が悪態をつくと、利造はうんうんと頷いた。

ただひとり、伝吉は難しい顔をしている。

「どうした?」

市次郎が尋ねると、伝吉は藤一郎と利造の方を順に見てから言った。

「事情を話した上で、喪が明けたらすぐさまお佐奈ちゃんを市次郎に落としてもらった方がお佐奈ちゃんのためなんじゃないか」

「ええ、入ったばかりの市次郎に村の恥を話すって…結構きつくないかそれ」

利造はげんなりした表情だ。

「あいつはアレを知ったからといって逃げるような奴じゃないと思うけどな」

藤一郎は呟くように言った。

茶化すでもなく真剣に「落とせ」と言うからには何か事情があるのだろう。

「…どういうわけか訊いても?」

市次郎が尋ねると、藤一郎は大きく溜息をついて話し始めた。

曰く。

藤一郎の又従兄弟にあたる、庄屋の若旦那こと徳兵衛は、親に似ず大変出来が悪い、と。

当代の徳一郎は人格者であるが、何せ多忙である。藤一郎が把握しているだけでも、田畑の見守りをして、小作人の話を聞いて、村に病人が出れば医者を手配して、隣村との関係を調整して、帳簿の管理も行い、上意下達のために代官屋敷にも伺う。分家の弥次郎たちも手伝ってはいるが、家のことを任せられる人がいなければ到底できる仕事ではないのだ。

しかし、奥方が全て任せるには体も気も弱すぎた。藤一郎は詳細を知らないが奥方の実家に不慮の事態が発生したらしく、わきを固められる信用のおける侍女も用意できなかった。よって、一番古くから家に仕えている侍女頭の『ばあや』が嫡男の教育に口を出し、大層甘やかして自分の自由になる男に育てたのである。奥方にはそれを止める力がなかった。

我儘で気難しい徳兵衛は、自分の容姿に自信がない。野良仕事をほとんどやらないため、醜く太っている。庄屋が栄えているから太れるので、太いこと自体は必ずしも悪いものではないが…村のために動き回っている恰幅の良い父親と比べると、『怠け者』を絵に描いたような徳兵衛は全く違うものだ。彼は自分より容姿に恵まれた同年代の男…同年代ほぼ全員なのだが…を嫉妬して憎み、遠ざけている。色白の美形である市次郎が下宿を拒まれたのは、こういった理由からだった。野良仕事をしないことについても、何か他のことに集中しているならまだ『道楽息子』という評価で済んでいたかもしれないが、やることもばあやの言いなりでころころ変えているのだから困ったものである。

実の息子とうまくいかない悲しみは奥方の病をさらに悪化させ、ほとんど寝込んで過ごしており、先も永くないだろうと言われている。

「…大丈夫なのか?次代がその調子で」

市次郎が尋ねると、藤一郎は答える。

「庄屋様は賢いから、同じ失敗を繰り返さないように『賢くて強くて、家のことをしっかり取り仕切れる妻』として隣村の庄屋さんのお嬢さんと若旦那を許嫁としたんだよ…確か、古屋のみっつ年上だったかな」

古屋は八つだから、十一歳。まだ子供である。それでしっかりした妻になると言われているというのは大したものだ。

「隣村はこの村よりたくさん家があって、大きな寺もあって医者もいてな?それで庄屋さんはうちの村よりも大きな土地を持っているんだ、一度お遣いで行ったけどものすごい豪華な門構えのお屋敷だったよ」

「それでお侍さんが文句言わねえんなら、相当だよな」

伝吉と利造が言う。侍は門を建てたくらいで文句を言ってくることがあるのか、と市次郎はげんなりしたが、とりあえず徳兵衛の許嫁のことはわかった。要は格上からしっかりとした妻をもらうことで、侍女頭が好き勝手できないようにするのが一番の目的なのだろう。うまくいけば侍女頭ではなく奥方の言いなりになって、今よりはマシになるかもしれない…と、藤一郎は語る。

「…次代のことはわかったけど、何故それがお佐奈さんを落とせということに?」

市次郎が尋ねると、

「あの馬鹿若旦那、佐奈を愛人にしようとしてたんだよ」

と藤一郎が答えた。

「!!!」

ぞわりと悪寒が市次郎の体を走った。そのような悪い男が、佐奈を狙っている…なんとおぞましい話であろうか。

「徳兵衛は隣村のお嬢さんを正妻にして佐奈を愛人にするつもりだったらしいが、あんな我儘な男に遊び相手にされるなんて佐奈は勿論嫌がったよ!庄屋様も全力で止めた!お祭りの時にやってくる女田楽ならまだしも、村で五本の指に入るほどの力がある家の娘なんて遊びじゃ済まされない、下手すれば縁談が壊れてしまう可能性がある」

「かといって、村の掟にしたがって庄屋の息子を百叩きにして代官館に突き出すことができるのかって言われると…雇われ人の俺達にはきついよな」

…その筋の専門家であれば遊んでも許されるという人間の価値観は理解できない、一夫一妻制の鶴の市次郎であったが…

彼の中でようやく全てが繋がった。

『佐奈を落とせ』と言う村人たち。

佐奈と自分が結ばれることを望む、庄屋の家に祀られた福の神。

庄屋の若旦那が佐奈に手を出せば、村の秩序は崩壊し、隣村の実力者に睨まれ、福の神も家を見捨てざるを得ない状況に追い込まれてしまうということだ。

「庄屋さんはお佐奈ちゃんが必要以上に家の外に出なくても働けるように、機織り機を貸し与えてくれたんだよ」

器用だから使いこなしてる、と伝吉は笑う。

「ああ…あの部屋に不釣り合いな機織り機は、そういう理由が」

「でも綿ならともかく青苧だと三月近く織ってせいぜい油一升にしかならない、夜にその油を灯して草鞋や藁靴を拵えてもたかが知れてる…田畑を貸して金を取ろうにも村には貸す相手がいないし、それこそ隣村の庄屋さんから婿を紹介してもらおうと考えたところに、土地神さんの神社からお前が来たってわけだ」

「お佐奈ちゃんの救いの神だな」

「あ、いや…それは…」

市次郎は平常心を装って返しつつも、佐奈が弥次郎宅で寝起きする理由を知って恐ろしくなった。村の若い男を警戒していると言っていたが、それは徳兵衛ひとりを指していたのだ。

しかし、同時に悲しくもなる。兄や利造、伝吉の中に本来であれば自分もいたはずだったのだ。佐奈とは幼馴染で、兄とその妻である紺のようにゆっくり仲を深めて、危ないことがあっても傍で守ることができたかもしれないのに…と。

色んな感情が湧いてきてどうしたらいいかわからず肩を落とす市次郎を、藤一郎は慰める。

「紺から佐奈の様子聞いてやるから」

「頼みます、兄さん」

「おう」

思わず口を滑らせた市次郎だったが、『村の兄貴』という意味に受け止められたらしく、特に誰からも指摘されることはなかった。

■□■

村に春がやってくると、もうすぐ田植えである。

市次郎は神社に豊作を願い、抜けた鶴の羽を神に捧げて糸へと換えた。

「調子はどう?」

土地神は相変わらず気さくに話しかけてくる。

「まだ喪中ですので…」

「お寺さんはそういうの厳しいね」

藩によっても違うらしいが、ここいらは神仏習合なので、土地神も割と寺の文化を受け入れているようだ。

「決まりは守りますよ、村の人たちが鶴を食べなかったのはお寺さんのおかげなんですから」

市次郎は精進潔斎というあの時の事情を知ったようだが、それでも佐奈への気持ちは変わらなかった。

「十九年間の代償はきっちり払うようにと縁結びの神からきつく言われているからね、僕は豊作にするほどの力はないけど協力くらいはするよ、鳥たちに話をつけておく」

「ありがとうございます」

どうやらこちらの神様は市次郎以外にも鳥がお気に入りらしかった。

すると、空から一羽のヒヨドリが現れて、ピーヨピーヨとやかましく鳴き始めた。

『どうしたんだい、ああ、彼が間違えて鶴にしてしまった男かい』

土地神がいるおかげだろうが市次郎にも何を言っているかわかる。長生きしているのか、老婆の声であった。

「上之田通村の市次郎だ」

土地神が言うと、

『あそこの長者の家の婆は大層意地が悪い!前に庭の茱萸ぐみを食っていたら鬼の形相で追いかけてきおった!』

とヒヨドリが騒ぐ。村の長者は庄屋のことであるから、意地悪な婆とは例の侍女頭のことであろう。

「畑の野菜はなるべく食べるな、庄屋の庭の花や実ならいくらでも食ってやれ!福の神がそう言っていたぞ」

土地神はそう言って笑った。

『やれやれ、あの婆に追い回されろと言うのかい』

「そのうち懲らしめてくれるだろう、この市次郎が」

「私ですか!?」

いい加減なものだなあ、と市次郎は溜息をついた。しかし、家についている福の神にそのようなことを言われて大丈夫なものなのだろうか…庄屋はやがて見限られるのではないかと市次郎は気が気でない。

すると、ヒヨドリが不吉な過去を告げる。

『しかし今度は大丈夫なのかい、二百年ほど前に鶴の娘が人里の男に恋をして叶わなかったと松の木の精が言っていたよ?鶴だとばれて、空に逃げ去ったってさ!あの時も体を間違ってたのかい?』

「えっ!?」

市次郎が慌てて土地神の顔を見ると、彼は髪の毛を逆立てて怒っていた。

「あれは神が間違えたわけじゃない!鶴の姿をした神の使いだよ!」

「…神の使い?」

市次郎は首を傾げる。事情が全く違う夫婦なのに『鶴と人の夫婦の失敗例』と思われているのだとすれば、市次郎としては心外であるが。

「二百年前だから当時の土地神は先代だね……その鶴は山の神と先代に情報を伝える役割を任されていたんだ、鶴の姿をしているけれど女神、天女なんだよ」

「天女ですか…」

「見た目は鳥でも賢くて、だからこそ人に恋をしてしまった……山の神は人と神の使いが恋仲になることを良く思わなかったけれど、恋煩いで彼女はどんどんやつれていった」

『あー、山の神は面白くないだろうねえ』

ヒヨドリが当たり前のように返す。自然の神は人をよく思っていない者も多いらしい。

「それで、山の神と先代が話し合った結果、正体がばれたら一緒にいてはいけないと鶴娘に条件をつけて、一時的に夫婦にしてやることにしたんだ」

「……それで、正体がばれてしまったのですか?」

「鶴とはいえ天女には違いないからね、神通力を使って色んな物を出しては生活の糧にしてたから、さすがにばれるってものだよ!神の恵みを受けても何の疑問も持たず感謝もしない頭からっぽな野郎より、気づいて問いただす夫の方が何倍もマシだと思うけどね?村の皆からは妬まれるし泥棒を疑われるし、男も気の毒なことになっていたらしいよ」

「…」

「そして正体は暴かれた…そして鶴娘は神との約束を夫よりも大切にしていたから、正体を暴いた夫を捨てて空に帰ったんだよ」

「夫よりも…?」

市次郎はその言葉が引っかかった。

土地神は深呼吸をして怒りを落ち着けると、市次郎に問いかけた。

「市次郎、君が一番知っているだろう?番となった相手と生涯添い遂げる鶴ならなおのこと」

「え?」

「本当に心から愛していたなら正体がばれても一緒にいようとするはずだ……彼女は天女、神通力の恩恵を村に差し出せば、それからも村に置いてもらうことだってできたはずだよ?」

「それは…」

確かに土地神の言う通りだと市次郎は思う。もし自分なら、仮に鶴だと露見しても佐奈の傍にいたいと願うだろう。拒絶しないでくれと泣いて縋りつくかもしれない。もし化け物扱いされて矢を射られて殺されることになったとしても、一度は佐奈に貰った命なのだから……。

「それに、愛し合っている二人ならあの縁結びの神が黙っていると思うか!?二人を引き裂かないように口を出してきていただろう」

「…!」

「つまり、男の側は彼女を愛してはいたけれど、生涯を添い遂げたい気持ちよりも疑いの方が大きくなっていたということさ…人の番というのはそういうものだよ」

「疑いの、気持ち…」

嘘をついている市次郎は、肝が冷えるようであった。

「…というわけで、人の体だと番に縛られるのは不自由なんだが、問題はないか?」

鶴と違って、人間の番は気持ちで結ばれる。そして、人の気持ちは変わりやすいものだ。

「我が家に限っては人でもあまり変わらなかったですよ」

市次郎は少しむっとして返した。父も兄も妻にベタ惚れで浮気なんて頭になさそうな一家である。もちろん全員がそうではないとは市次郎もわかっている。あの兄ですら、徳兵衛の愛人について『お祭りの時にやってくる女田楽ならまだしも』と言ったくらいなのだから。

「意地でも子供を残すことを強要される偉い連中はそうもいかないよ、例えばあっちの城に住んでいる殿様なんかはね…僕の領域じゃないから、よく知らないけどね」

土地神の指さす南の方にはお殿様が住む城があると聞くが、空は霞んでいてよく見えない。意地でも子供を残さなければならない…妻に子供ができないならば、他の女を愛していなくても孕ませなければならないということだ。人間はお殿様ですら色々な決まりに縛られているというのは神主に教わっていた。江戸にはお殿様より偉い将軍様という人がいて、お殿様に後継ぎがいないと『お取り潰し』されてしまうのだという。

「確かに、人として生きると色々と面倒なことが多いようで」

その呟きを聞いた土地神はにやりと笑った。

「佐奈の方が鶴になれば楽だったのに、とでも思うか?」

「!」

市次郎はぎくりと体を震わせる。確かにその可能性を考えたこともあり、何も言い返すことはできなかった。

「縁結びの神は正しい相手と結ばれるならそれでも問題ないと言いそうだけどね」

「…問題ないんですか」

やはり神々というのは適当なものらしいと、市次郎は再度思うのだった。

市次郎が村に戻ると、佐奈が村の入り口の石に腰掛けて待ってくれていた。

「あ、市次郎さんいた!探してたんですよ」

「え、あ、何か用ですか」

佐奈に嬉しいことを言われると、市次郎は相変わらず顔を赤くしてしまう。近くにいた村の仲間たちも『やれやれ』と苦笑しつつ二人を見守っていた。

「苗の場所を入れ替えるので手伝ってほしいんです」

「力仕事なら任せてください」

「お昼はうちで出しますね」

「ありがとうございます、お佐奈さん」

仲睦まじい二人だが、喪が明けるのは文月のことなのでまだ先は長く、具体的に何か進展したということはない。市次郎は弥次郎の家での下宿から掘っ立て小屋に住むようになり、むしろ一つ屋根の下で過ごしていた時よりも距離は遠くなったかもしれない。…まあ、兄夫婦を邪魔し続けるのも市次郎としては本意ではないので、これでよかったのだが。おかげで藤一郎の機嫌が毎日すこぶる良いし、紺は昼まで外に出てこない日もある。

「日当たりが均等にならなくて」

「ここは朝方は山の木の陰に入りますからね」

佐奈は身を守るためになるべく一人きりにならないようにしており、先程市次郎を待っているときも藤一郎と伝吉が近くにいた。が、この二人は佐奈が市次郎と二人きりになることについては完全に問題ないと思っているらしく、既に立ち去っている。応援してもらえているのは嬉しいことだが、正直自分の理性はそこまで信用できない市次郎であった。鶴には特定の繁殖期というものがあるが、人間の身体…特に若い男は年がら年中繁殖期である。佐奈を孕ませたいという衝動に耐えきれず、いかがわしい夢を見ることもあった(野に生きているときに獣のつがいを目にすることは多々あったため、人間がどうやって子供を作るのかは理解している)。兄は最愛の妻とほぼ毎晩なわけだから、羨ましくてしょうがない。それでも市次郎は佐奈に嫌われたくない一心で耐えていた。

そんなわけで市次郎は佐奈を守ることを許されたが、意外にも今まであの馬鹿若旦那こと徳兵衛が何かを仕掛けてきたということはない。というのも、例の女中頭は徳兵衛を甘やかしているものの、隣村の庄屋との縁談には大賛成で、徳兵衛が佐奈に手を出すことを邪魔しているからだ。徳兵衛に強力な後ろ盾がつけば自分は今よりも贅沢ができ、逆に勘当でもされれば共に没落するのだから当然といえば当然である。

だが、利造の思い人でもある庄屋の女中の美代が、女中頭が用意した手頃な遊び相手であると知ったときには、市次郎は戦慄したものだ。だから佐奈にどこか似ていたのか、と。利造は早く助け出してやりたいと意気込んでいるが、自分も雇われ人の身分ではなかなかそれもうまくいかないようだ。

…人間の暮らしは、何かと難しい決まりが沢山ある。助けてあげたくても、道が閉ざされて、何もしてあげられない。

『佐奈の方が鶴になれば楽だったのに、とでも思うか?』

土地神の言葉が市次郎の胸に突き刺さる。

市次郎が難しい顔をしていると、腹が減っていると思ったのか佐奈が急いでこちらへやってきた。

「市次郎さん、握り飯と白湯をお持ちしましたよ」

「あ、ありがとう、お佐奈さん」

「…ふふ、爺様が死んで私の握り飯を食べてくれる人がいなくなったと思っていたのに、こうしていてくれるのは嬉しいです」

「え、ええ!?わ、私でよければいくらでも…!」

佐奈の方も市次郎のことを本気で好きになったらしく、こうしてささやかな恋の言葉を投げかけている。田畑を耕す人手が足りず困窮しそうになっていたところに颯爽と現れた美男子というだけでも恋を知らない乙女にとっては十分すぎるほどの衝撃なのだが、その人が何故か自分を好きになってくれて、いつも優しく誠実に接してくれる。まるで夢のような話であり、好きにならないわけがないのである。

市次郎はこの調子なので気の利いた答えは返せず、今日も何も進展はしないのだが。

「明日は若菜を採りにお紺ちゃんと山に行くんですよ」

「山に登るんですか?」

「登りますよ?藤一郎さんがついてくるらしいので留守をお願いしていいですか」

「兄さ……藤一郎さんが一緒なら安心ですね」

佐奈が来ていたなら鶴の時にもっと里山の方に行けばよかったとか、義姉上は山登る体力が残ってるのだろうかとか、そんなことを考える市次郎。

「たくさん採れたらおひたし作りますね」

「楽しみにしてます」

(佐奈を鶴に変えれば、二人で徳兵衛から逃げられるかもしれない…村や年貢のしがらみもなくなる……でも、あの優しい笑顔を見られなくなるのは嫌だ)

自分は本来の家族に会えて嬉しかった。一年にも満たないのに、既に離れがたいのだ。小さいころから村で育った佐奈であれば、猶更だ。

何としても人間として佐奈と添い遂げてみせると、市次郎は決意を新たにするのであった。