第4話 祭りと怪物
市次郎と佐奈は相談の上、冬になって時間に余裕ができたら市次郎の持っている糸を織り、『鶴の羽衣』を作ることにした。
いざという時にそれを使えるようにしておくべきだと佐奈が提言したのだ。
「俺は佐奈と離れるつもりはないよ」
勿論市次郎はそう返したのだが、佐奈の考えは別だった。
「そりゃ私だって離れたくないけど…人も鶴もどうにもできないことがあるのよ……万が一私が卵や鶴を産んだら、みんなに正体がばれちゃうのよ」
「!!」
市次郎はそれを聞いて青ざめた。自分は完全に人の姿に変身させられているが、その可能性が全くないとは言い切れないのだ。
「その時には市次さんが鶴になって、子供を連れて逃げてほしいの…私たちの大切な赤ちゃんを守ってほしいのよ」
佐奈は静かに、それでも力強く言う。
「ごめん……将来のことを何も考えていなかった…俺はダメだな…」
市次郎は結婚ですっかり浮かれていた自分を恥じた。
「大丈夫よ、二人で一緒に考えていきましょ」
そんな市次郎を、佐奈は優しく慰めるのだった。
文月ももう終わりが近づいた。そろそろ地蔵盆の祭りだと佐奈は言う。地蔵の近くに村の子供たちを集め、供えた団子のおさがりを貰って子供が健康に育つことを願うのである。子供はもちろん、普段働きづめの大人たちにとっても祭りは貴重な休みである。
祭りには古屋を含めた村の十歳までの子供たちが集まってくる。来年は紺のお腹にいる子供も参加することになるだろう。
「うちの子も出られるかな」
「まだできてもいないのに?」
楽しそうな子供たちを眺めながら、気の早いことを言う市次郎。
市次郎にも祭りを見せようと佐奈が地蔵のところまで連れていくと、そこに徳一郎と弥次郎…そして珍しい人物が一人いた。
「さあ、皆さん、お団子をお地蔵様にお供えしましょう…」
か細い声で呼びかけるのは、ここのところほとんど外に出ることのなかった徳一郎の奥方であった。こういうことは確かに村長の奥方の仕事ではあるが…寝込んでいる彼女には無理だと皆は思っていた。庄屋の屋敷から山に近いこの場所まで歩いてくるだけでも相当な負担だっただろう。
「…お労しい」
あまりにげっそりと痩せたその様子に佐奈は顔を歪め、子供たちも呆気にとられてその姿を見つめていた。
「奥よ、どうだ」
「はい、罪深い私ですが……ほんの僅かな善行でも果報があるというのなら、どうか村をお救いくださるよう…」
そこまで言って奥方はふらりと座り込み、慌てて徳一郎がそれを支えた。それでも、欲深い侍女頭の増長を止められなかった自分を罪深いと評し、それでも村のために祈願した彼女は庄屋の奥方としての誇りを忘れていなかった。だからこそ、近いうちに訪れるであろう別離を皆が嘆き、悲しんだ。
やがて加屋が現れて、奥方に何か耳打ちをされた後にてきぱきと動き始めた。徳一郎は妻を背負うと、後を弥次郎に任せて屋敷へと戻ってゆく。わざわざそれを見せたのは庄屋とその奥方の命令で動いているのだ、ということを周知させるためであった。
こんな小さな村の中ですらそういった工作が必要になるのかと、市次郎は悲しい気持ちになった。
■□■
市次郎と佐奈が結婚してひと月と少しが過ぎた。今日、二人は神社を訪れている。
「やっぱり仏さんのお祭りは真面目だねー、でも子供たちが美味しいお団子を食べられるならいいんじゃない?」
寛容だけれど大雑把な土地神は、他所の祭りについてそのような感想を返した。
「佐奈、冬にやる土地神様の祭りは真面目じゃないのか?」
真相を話してからは佐奈も神社で土地神の話を聞くようになった。尤も、佐奈には見えないし声も聞こえないので、市次郎や神主が仲介をしているのだが。
「うーん…お酒を飲んで浮かれるからっていうのもあると思うけど、秋祭りと正月の宴会は女田楽や芸人が呼ばれるし、お地蔵さんの祭りより騒がしくはなるかもね」
「そうか…」
村の若い男が女と遊ぶのはこの祭りなのか、と市次郎は少し納得した。土地神はこれだけ寛容(というよりはいい加減と言った方が適しているが)なのだから、当然祭りも何でもありなのだ。
「昔はあいつもそんなに真面目なお地蔵さんって感じじゃなかったんだけどね、百何十年だったかな、前に一度壊れてからああいう姿になったね」
「それって確か山崩れの…姿が変わったんですか?」
「神仏というのはね、人が信じている姿をしているよ」
土地神はそう言って笑った。
「市次郎、せっかく来たのだから糸の贈答記録をつけなさい」
神主が声をかけてきた。糸は神棚に羽根をいくつか置くとそのうち変化することで手に入れているのだが、あの綺麗な糸は目立ち人目につきやすい。それに、そもそも人は無から糸を作り出すことはできない。考えた結果、糸が神主のところに送られてきていることにする、ということになったのだ。要は市次郎が糸を持っていることについての言い訳づくりである。
「糸枠ふたつ分ですね」
「わかった、ではここに書いてくれ…」
日々の教育のおかげで、署名も様になってきた市次郎であった。
一仕事終えると、土地神が佐奈のお腹をぺたぺたと触っていた。見えていない佐奈は全く反応していないが。
「お佐奈の腹に子供ができたみたいだね、今度は魂を間違えないようにちゃんと確認したよ」
「ええっ!?」
「まだわからないだろうね、お佐奈からすれば月の障りが数日遅れているだけにすぎないから!なかなか丈夫な子になる予定だけど、お腹の子が亡くなるのは魂の問題だけじゃないからね?無理をさせないように、市次郎も気をつけるんだよ」
自分の不注意を棚に上げ、土地神は市次郎に説教をする。
「え…まだひと月ちょっとなのに…?」
「どうしたの?」
「やったあ!!」
何があったか首を傾げる佐奈を、市次郎は抱きしめた。ついに愛しい佐奈との子供を授かったのだ。佐奈を自分の番だと感じ取ったあの日からどれだけ願ったことだろう。
生まれてくる子供が人間の姿なのかどうか不安はあるが…今はただ無事に育って生まれてくることだけを願う市次郎であった。
■□■
秋も深まり、冬の気配が見え始める頃。
月の障りがなく、その上悪阻まで始まれば、さすがに佐奈も周囲も懐妊に気づく。
「眠い…」
吐き気よりも眠気が上回っている佐奈は、家事を終えるといつも縁側でウトウトしている。
「そうよね、そういう時期よねー」
先に妊婦になった者として、友人の紺は色々助言してくれているようだ。彼女は大きなお腹で、いつ産まれてもおかしくない。これから生まれるのは庄屋分家の嫡出子であり、本家の息子である徳兵衛はまだ結婚していないこともあって、出産が代官にも報告されるほどの一大事なのだが…紺は相変わらずふわふわ呑気に笑っている。緊張するよりはいいのかもしれないが。当然ながら、裏ではあれこれ準備が整えられている。お産を行う産屋が綺麗に掃除され、産婆が呼ばれ、隣村の医者には滋養の薬を頼んで……こうやってお産を助ける村の女性たちを仕切るのは本来庄屋の奥方だが、今は加屋が代理としてその職務を行っている。
「私の時にも加屋おばさんがついててくれるし、心強いわ…むしろ市次さんの方が不安になっているくらいよ」
土地神に『無理をさせるな』と釘を刺されたのもあるが、市次郎は佐奈に対して非常に過保護であり、水に近づくだけでも冷えると反対されるほどだ。でも実際のところ、収穫を前に市次郎はあれこれ忙しいので、佐奈が洗濯をしないと家事が回らない。過保護すぎるのも困りものなのである。
「やっぱり藤一郎さんにそっくりねえ」
「…」
どうやら相当おっとりした紺にまで、藤一郎の弟の生まれ変わりだと悟られているらしかった。
「私、お義母さまに機織りを習っていたでしょう?ようやく様になってきたから、お佐奈ちゃんを助けられるわ!今年は青苧の虫食いが少なくてたくさん穫れたし」
(土地神様が鳥たちに虫を食べるように頼んだらしいからね…)
さすがに本当のことは話せない佐奈であったが、何にせよ生活の糧が増えることはありがたい。
「それに家の中で仕事をしている方が、藤一郎さんは安心してくれるのよね」
「負けず劣らずの過保護なのね……あれ?ということは、弥次郎さん家の機織り機はお紺ちゃんが使うのよね?」
「そうよ~、お義母さまは庄屋さん家の機織り機を借りて織るって言ってたわ!奥方様の看病もするって」
「…」
佐奈の顔が険しくなった。
加屋は機織りを口実に庄屋の屋敷に入り、あの侍女頭を見張るつもりなのだろう。ずっと奥方を蔑ろにしているので、ちゃんとした看病をしているかも疑ってかからないといけない。加屋はなかなか強かだ。
だが、
「でも私のお産が無事に終わって、産後の障りも済んでからねって」
計画が動き出すのは来年になるだろう。
「…そうね、今はそれが一番優先すべき事態だわ」
佐奈は笑顔に戻り、紺のお腹に触れた。ちょうどその時にお腹の中の赤ん坊が動き、手がボコンと跳ね返されたようになる。本当に自分のお腹にも同じように赤ん坊がいるのだろうかと、佐奈は不思議な気分だった。
「動くのが下の方になってきた気がするの、そうなったらもうすぐだって皆が教えてくれたわ…お医者様が言っていた日はもう過ぎてるんだけどね、初めてだと遅れてもおかしくないって」
「無事に生まれてきてね」
佐奈は優しく微笑んだ。
この二日後に、紺は無事男の赤ん坊を出産した。初産にしてはお産が軽い方だったのだが、村の決まりによって紺は産屋にひと月以上留まることとなる。
そしてこの産屋、女だけが集まる場所ということもあってなかなか重要な情報交換の場でもあった。佐奈は自身も妊娠中ということで紺に粥を届けるくらいの役目だったが、加屋が積極的に情報収集をするので、傍についていれば耳に入る情報も多い。
庄屋も侍女を手伝いによこしていたので、その中年の侍女…久万が加屋と佐奈にとっての情報源となった。この久万は隣村に面している『村東』地域の副組頭の妹だそうで、普通の侍女よりは情報通だった。働きながらぺちゃくちゃと話している中で、久万は恐ろしい情報をもたらした。
「お佐奈さん、まだ若旦那は諦めてないよ、あんたのこと…だから旦那にしっかりと守ってもらうんだね」
「…ひっ」
ぞわっと寒気が走った佐奈は、思わずその場に屈みこむ。
「佐奈、大丈夫?お久万さん、佐奈はお腹に赤ちゃんがいるんだからあまり怖い話をしないでおくれ」
加屋はやんわりとたしなめるが、
「何かあってからでは遅いからね…もう奥方様は起きている時間もすっかり少なくなってうつらうつらと眠ってばかり、お世話のために使用人たちはてんやわんや、若旦那を止める人が減ってしまっているんだよ」
と久万は難しい顔をしている。いよいよか、と加屋と佐奈は顔を見合わせた。
「でも、ばあやさんは若旦那の女遊びをよく思っていないと…」
「ああ確かに、許嫁のお嬢様と実家を怒らせたくないからねえ…ただ、ちょっと今は危ないかもねえ」
「危ない…?」
そして久万は思うことがあったのか、ついに庄屋の闇を吐き出してしまった。
「加屋さん、おババ様が憎んでいるのはあなただよ」
「…え?」
ぽかんと目を丸くする加屋に、久万は続ける。
「子供を産んで二人無事に育って、その上亭主に愛されているからねえ…おババ様がどうやっても叶わなかったものだから、妬ましいんだよ」
それを聞いて佐奈たちは何があったのかを察した。残念ながら、子供のできなかった妻を追い出してしまうというのは珍しくもないご時世なのである。むしろ、上之田通村が特殊であった。この地域の縁結びの神は、上の存在であるはずの土地神を仕置きするほど口煩い。この土地の夫婦はそんな縁結びの神のお墨付きなのだ。だから、揃いも揃って仲睦まじい。他所の村から離縁されてやってきた者からすれば……惨めに思うのも仕方のないことである。
「…そんなこと言われてもね、私にはどうしようも」
「これからはあんな小さいのを抱えておいて何も知らないってわけにもいかないだろう?孫は男の子だったんだ」
久万は母乳を飲んでいる小さな赤ん坊をちらりと見た。
「…そうね…男の子だった、からねえ」
加屋が青い顔で呟いた。それが意味することは明確だ。跡取りが不真面目な徳兵衛しかいない衰退しゆく本家と、藤一郎という立派な跡取りがいる栄えゆく分家…分家に生まれた男の子はその象徴なのである。女中頭はますます加屋を妬むであろう。そんな加屋が看病や機織り機のことで庄屋屋敷に出入りするようになると…女中頭は苛立ちのあまり、冷静でなくなるかもしれない。冷静に考えられているうちは、徳兵衛の縁組を守ってこれからも贅沢を続けることを選ぶだろう。しかし、加屋とその身内へ危害を加えることを優先したら……藤一郎と生まれたばかりの息子、まだあどけない古屋、そして市次郎と佐奈とお腹の子供も狙われかねないということである。
「弥次郎殿は話したことを怒るだろうけど、あたし達庄屋屋敷の使用人はあのババ様を止められないからって元々嫌われてるだろうからね、嫌われついでさ」
久万はそう言って、乾いたおむつの布を床に積み上げるのであった。
なお、男たちは収穫の仕事が忙しく、弥次郎が久万に対して怒る暇などもないのであった。
「一大事だから仕方ないとはいえ、女手が減るのは痛いなあ」
「でも去年は市次郎がいなかったからな?秋には勘吾郎じいさんも臥せっていたし、あわただしさは大して変わらないんじゃないか」
利造と伝吉はそう言う。
「役に立ててるなら嬉しいよ」
はつらつと走り回る市次郎の横で、
「忙しいくらいが気が紛れていい」
藤一郎はぶすっとした顔で稲を干している。村の掟で、父親でも男は産屋には入れない。我が子の顔を遠くから眺めることだけが許されている…が、今は多忙ゆえにそれもままならないのだ。
「白湯と漬物を持ってきましたぞ」
女性陣がいない村中の組は人手が足りないため、老神主すらも食事を出す手伝いにやってきている。
…しかし、それほどまでに忙しいというのに、庄屋の息子・徳兵衛の顔はない。
庄屋の徳一郎当人は、朝から夕方までずっと外に出て働いている。死の床にある妻の傍についていてあげたいだろうに。
「親不孝者め」
弥次郎が苦々しい顔で吐き捨てた。
■□■
冬がやってくると、雪が積もる前に収穫を祝う祭りがある。鳥たちの活躍のおかげで、虫の被害が出なかった青苧と菜種が大豊作であり、いつもより少し豪華な祭りとなった。
(土地神さまと屋敷の福の神さまがおっしゃっていた通りになった)
作物に手を出さず、作物についた虫を食べるように。その代わり庄屋屋敷の花や実は多少荒らしてしまっても構わない、と。鳥たちのおかげで屋敷の庭は酷い有様になってしまったらしい。
「いつも村を豊かにしてくださり、ありがとうございます」
改めて神社を訪れた際に、市次郎は改めて感謝の意を示した。
「それじゃあ、次の祭りは市次郎が仕切ってくれ」
土地神はあっけらかんと返した。
「年始めの祭りを…ですか?」
年始めの祭りというのは、村の中で直近でお伊勢参りをした者を神社に招き、村の皆がそのご利益にあずかるという祭り…という名目で行われる、村の新年宴会である。
「お前の兄嫁に、夫が働きすぎて疲れているから守ってくれと拝まれたんだ」
「はあ…」
兄が疲れているのは自業自得なところもありますけどね、と市次郎は内心思う。
「彼は本来の役目ではないことも文句ひとつ言わずにやっているから、こちらとしても何か返してやりたいけどね?でも、人のことはなるべく人の手で解決したほうがいい」
本来の役目ではない…こういう時に本来仕切るべき存在なのは、若い衆の代表となるべき存在、つまり庄屋の跡取りである。だがやはりと言うか、徳兵衛は何もしていないのだ。
「市次郎は新参者ですから、角が立たないように仕切り役の名義は藤一郎殿のままにして、手伝いは養い親である私が命令したということにしておきましょう」
と、神主がうまく事態をまとめてくれた。地蔵盆の時に庄屋の奥方と加屋がやったことと同じような根回しが必要なのだな、と少しずつ人の事情が分かってきた市次郎であった。
そして年が明けて、うっすらと雪の積もった村にて。隣村の者に招待状を出したり、酒を手配したりと市次郎は忙しく働いた。
秋祭りの時はあちこち走り回っていた藤一郎も、今度の宴会ではゆっくり酒を飲む時間ができたらしく、仲の良い伝吉と利造と談笑している。
…いや、談笑、とは言えない。
利造が酔ってくだを巻いているからだ。
「お美代ちゃんたちが来てない!」
利造はそう言って文句を言う。そういえば、庄屋屋敷の女中頭の下にいる奉公人たちの姿が見えない。久万の姿が見えたので市次郎が事情を尋ねてみると、
「若旦那さまが失くした書物を今日中に探せと命令されて、屋敷じゅうをひっくり返しててそれどころじゃないみたいなんだよ…あたしは庄屋様の直属だからこうして来られたけどね」
と教えてくれた。
(祭りは村の皆が参加できるというのが決まりなのに、ひどいな…)
市次郎は溜息をついた。
それを掻き消すように、新年を祝う音曲が響き、招かれた女田楽たちが美しい舞を見せ始める。若者たちが歓声を上げた。
そんな女田楽を遠目に見ながら、
「市次郎さん、神社に女田楽を呼ぶための文を書いていたんでしょう?お佐奈さんは浮気しちゃだめだってちゃんと旦那に釘を刺しておいた?私は刺したわよ」
伝吉の妻・喜代が佐奈に呟いていた。
「あれは代筆みたいなものというか何というか……そもそもうちの旦那はそれどころじゃないと思うわ」
「まあうちもね、疑ってるわけじゃないけどね」
「秋の祭りの時も来てたでしょ、女田楽の人たち」
悪阻も終わって体調が安定し、すっかり落ち着いた佐奈は動揺ひとつしない。喜代も勿論それを分かった上で、お互いに惚気合おうとしているのだ。村の東や西にも若者はいるし隣村の人を接待するから娯楽は必要……と理解したようなことを言っているが、この二人にとっては完全に他人事なのであった。
「たまには嫉妬のひとつでもしてやらないと面白くないから言ってみたのよ」
「あんなに落ち着いた旦那さんなのに不満でもあるの?」
「周りが年下ばかりだからか、年の割に落ち着きすぎなのよ…藤一郎さんみたいにわかりやすくないから、あの人」
喜代は溜息をつくが、やはり惚気話だった。
藤一郎はわかりやすい……二月近い産屋での生活を終えてお紺と息子が家に戻ってきたのだが、藤一郎は案の定二人にべったりだった。
(わかりやすい人か……この子が生まれたら、きっと市次さんもああなるわね)
佐奈はそっとお腹を撫でた。
すると。
「おーい喜代!」
伝吉が向こうから呼びかけてきた。
「どうしたのー!?」
「利造が悪酔いして困ってるんだ、冷たい水を持ってきてくれるかー」
「お美代ちゃーん!」
利造の叫ぶ声もする。
「随分酔ってるのね……お水ね、すぐに持ってくる!じゃあお佐奈さん、悪いけどちょっと待っててね」
喜代は夫に返事をすると、水を汲むために神社の井戸の方に走って行った。
「お美代さんに何かあったのかしら」
一人になった佐奈がぽつりと呟いた、その時だった。
「おや、お美代に会いたいのか?後で呼んできてやろうかぁ」
ねっとりとした声が、佐奈の後ろから飛んできた。
「…!」
その男は、血色の悪い肌に、太った体をしていた。
佐奈は思わず後ずさる。
「相も変わらずいい女だ…」
それは、いつも庄屋屋敷の中に籠っていて出てこない男…親不孝者の跡取り息子、徳兵衛であった。
「……ご無沙汰しております」
それでも庄屋の息子だと、佐奈はつとめて冷静に挨拶を返す。
徳兵衛は不躾にじろじろと佐奈のお腹を見ると、
「お腹、ちょっとばかり膨らんでいるなあ…でもまあ、いいかあ」
と呟いた。
何がいいのだ、などと返すことはしない。徳兵衛は諦めていなかったのだ、佐奈を愛人にするということを。
(今すぐにここから逃げなければ!!)
佐奈の額に冷や汗が浮かぶ。
「こっちで話をしようか」
徳兵衛が佐奈に手を伸ばす。
掴まれる!と思った、その瞬間。
「佐奈!!」
間一髪で、市次郎が飛び込んできた。
「市次さん……」
佐奈は青い顔で、慌てて夫の腕にしがみついた。
「…妻に何か?」
低い声で、でもなるべく敵意を殺して市次郎は徳兵衛に話しかける。
「お前が市次郎か…」
だが、徳兵衛の方は敵意が剥き出しであった。
「若旦那が顔を出せば皆喜びますよ!酒がお嫌でしたら、菓子として干し柿が配られていますからぜひ…」
引きつった笑みで、市次郎はこの場をやり過ごそうとする。
すると、徳兵衛が市次郎に吐き捨てるのだった。
「死んで蘇って佐奈を奪いに来るとは…化け物め」
「……!」
市次郎が弥次郎の死んだ息子の生まれ変わりだということは皆の噂になっているが、徳兵衛の耳にも入っていたのか。市次郎は驚くと共に、佐奈に乱暴をはたらこうとしたこんな男に化け物呼ばわりされる筋合いはないと腸が煮えくり返る思いだった。
(どっちが化け物だ、どっちが!!)
市次郎は叫びたくなるのを堪える。
すると、パンパンと手を打つ音がして、そこに老婆が一人現れた。
件の女中頭である。まだ年は五十ほどだと言うが、欲と嫉妬に取り憑かれた彼女の面立ちは醜く歪み、神主よりも年上に見えるほどであった。それに対して、やたら派手な着物が痛々しい。奥方の衣装代をちょろまかしているという藤一郎の予測は当たっていたようだ。
「若様!その方はお美代ではありませんよ」
「ばあや」
「お美代と間違えてしまったのですねえ?そうですよね、若様!?」
圧を感じる言い方であった。
「そ、そうだ…お美代とお佐奈はよく似ているからな!すまなかった!」
取り繕うように徳兵衛は言い、誤魔化し笑いを浮かべた。
(そんなはずはない…だって、お美代さんを『呼んできてやる』って言っていたもの…私だとわかって声をかけたんだわ)
佐奈は震えが止まらない。
「…体調が悪くなったか?申し訳ございません、妻は身重なので」
「あらまあ、お大事に!」
白々しく女中頭は言うのだった。
(今回のことではっきりしたな…あの若旦那が佐奈を諦めていなかったということも、女中頭の言いなりってことも、お美代さんが借金のかたに佐奈の代わりにひどい目に遭わされているということも……)
村のために、早く何とかしないと。
市次郎は立ち去っていく二人の背中を睨みつけた。
市次郎は神主の許可を得て一度家に戻ると、佐奈を休ませることにした。
「怖かった…怖かったの、市次さん」
ようやく力が抜けた佐奈の頬からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「無事でよかった…何だか嫌な予感がしたんだ、もしかしたら土地神さまが教えてくれたのかもしれない」
市次郎は佐奈の背中を擦りながら、優しく宥める。
「あんな奴に触られたくない……私が触られてもいいのは、市次さんだけなのに」
「佐奈…絶対に守る、俺が守る」
絞り出すように言った佐奈を、市次郎は強く抱きしめた。
■□■
珍しく徳兵衛が宴に顔を出したこと、そして同時に佐奈が帰ってしまったことで、村の皆は何かを察してくれたようだった。本当なら後片付けもあるのだが、神主は市次郎に先に帰るように言う。
藤一郎も、
「あとは俺の挨拶くらいだろう、お前は佐奈のところに帰ってやれ」
と言う。
市次郎が戻ってくるまでの間、佐奈には伝吉と喜代がついてくれていた。
その夜、佐奈は『ずっと抱きしめていてほしい』と市次郎におねだりをした。
市次郎は、お腹の赤ん坊を潰さないために佐奈を後ろから抱きしめて、そのまま二人で布団に横たわった。冬の冷えた夜の空気が二人を冷やすが、くっついていれば少しも寒くない。
「市次さん…」
「佐奈の体、あったかいな…」
「お腹に赤ちゃんがいるから」
「そうだな…ほんの少しだけお腹、大きくなったな」
「ふふ…くすぐったい」
佐奈が少しだけ笑ってくれて、市次郎は安心した。二人でくっついていたことで、恐怖はだいぶ薄れてきたようだ。
しかし、数刻の間ずっとそれを続けて佐奈の体を優しく撫でていた市次郎の中に、熱が生まれてきた。
(うーん…佐奈は安心したいはずなのに、どうしたものかな、これ…)
市次郎は佐奈のぬくもりと柔らかさで臨戦態勢になった自身に呆れていた。
今回の未遂に終わった狼藉だが、当然市次郎はものすごく腹が立っている。佐奈は自分の番なのだ、他の男に触れさせるわけにはいかない、こんなことをしていいのは自分だけだ…そう実感するために佐奈を激しく抱きたいという気持ちが湧き上がっていた。
だが、佐奈を優しく労わりたいという気持ちが彼を押しとどめていた。ましてや、佐奈のお腹には子供がいるのだ。激しく交わってもし子供に何かあったらと思うと、市次郎は欲望に負けるわけにはいかなかった。
「ねえ…」
ふと、佐奈が声をかけてきた。
「どうした?」
興奮していることに気づかれただろうかと、市次郎はぎくりとする。
しかし、佐奈は小さな声で呟くのだった。
「…あなたと繋がりたいの…悪い母親かしら、私……」
まさかの佐奈からの誘いに、市次郎の分身はますます硬くなった。断れるはずがない。
「…ほんの少しくらいは…大目に見てもらおう…」
市次郎は佐奈の夜着をたくし上げる。佐奈の秘めやかな所は既にぬるついていた。市次郎はそれを確かめると、熱杭の先端だけをそっと挿し込んだ。
「ん…」
佐奈が嬉しそうに市次郎の手を握る。
「久しぶりだから、本当はもっとしたいんだけど…お腹の子がびっくりするといけないから」
つとめて優しく、冷静に。怖がっている佐奈を余計に不安にさせるわけにはいかないと、市次郎は理性が焼き切れないように注意しながら浅いところでゆっくりと腰を動かす。
「市次さん、市次さん……」
怖い記憶を上書きするように、佐奈は泣くような声で夫を求めた。
「佐奈、大丈夫だ…」
「うん…嬉しい…」
愛する人に抱かれて、佐奈は心から喜んでいた。
「佐奈…ちょっと足を閉じてくれ…」
市次郎の理性はもう限界であった。快感を求めてうっかり奥に突き入れてしまわないように、市次郎は佐奈に懇願する。水音を立てながら先端が佐奈の入口をくすぐるように刺激した。
「市次さん……!」
佐奈は軽く達してしまった。思わず足をきゅうと閉じてしまい、それがさらに夫のモノの先端を締め付ける。
「っ、まずい」
慌てて市次郎は自身を引き抜くと、佐奈の背中に先を押しつけた状態で達して白濁を散らした。
「……市次さん?」
ドロッとした熱いものが背中を濡らし、佐奈は身を捩る。夜着に白濁が垂れて汚れてしまった。
「はあ……危なかった、お腹に子がいるときに中に出したらよくないって聞かされていたから…」
そんなことまで勉強していたのか…きっと真顔で聞いていたんだろうなと、佐奈は容易に想像することができた。思い浮かべた光景が何だか滑稽で、佐奈はようやくクスクスと笑い声を上げた。
「やっぱり市次さんは優しい」
「そうか?優しい夫だったら、妻がまだ怖がってるのに触っただけで興奮して挿れたくなったりしないと思うんだが……佐奈が寝たら一人でしようと思ってたし…大丈夫か?お腹張ってないか?背中拭かないと…」
情けない顔で甲斐甲斐しく世話を焼く市次郎に、また佐奈はクスクスと笑った。