鶴旦那は恩返しより溺愛したい 第1話

第1話 鶴の若者

むかーしむかし。

田舎のとある村を見つめる、一羽の若き鶴がおったそうな。

□■□

その村・上之田通かみのたづう村周辺を守護する土地神は、百年ほど前に代替わりしたばかり。神の世界では赤子のようなものであった。未熟な神の守護する土地では、時折生き物の運命に『間違い』が起こってしまうことがある。

そして、その『間違い』に一人の魂が巻き込まれてしまった。本来ならばその村で人間の男の子として生まれるはずだった魂が、間違えて鳥の…鶴の身体に入れられてしまったのである。

間違いに気づいた土地神だったが、もう遅い。魂のない空っぽの身体で生まれてきた男の子は死産となり、両親は大変嘆き悲しんだ。また、人の魂が母体の中で過ごす時間は鶴の雛が卵の中で過ごす時間に比べて遥かに長い。なかなか孵化しない卵を両親である番は見捨ててしまった。

土地神が神通力で卵を孵し餌を与えたが、人の魂が鶴の身体に馴染むことはなく、彼はどちらつかずの中途半端な生き物になってしまった。身体こそれっきとした鶴であったが、群れに馴染めない。野鳥は人を怖れるものだが、彼は人間に近づきたくて仕方がなかった。土地神は常に彼を哀れんでいた。

そして……その冬の日も、彼は本来生まれるはずだった村に近づいていた。理由はわからず、ただ惹かれるのである。雪の積もるこの時期は農業を行うことができないため、本来この村は静かなものであったが…今日は何故かざわざわとしていた。

そして…その村の近くには罠が仕掛けられていた。鶴の細い脚は瞬く間に縄にくくられてしまい、彼は悲鳴を上げた。愛した人間にこのような仕打ちを受けるなど、何と残酷なことであろう。

そこに、柔らかな声が響いた。

「あら…鶴?」

それは雪のように白い着物を纏った、若い娘であった。

「群れからはぐれたの?うっかり者ね…仲間は南の沼にいるんじゃない?今日は食べない日だから、運がよかったわね」

その娘は臆することなく彼に近づき、罠の縄を外そうとした。

「ああしまった!罠を片付けておくのを忘れていた」

「お佐奈ちゃん、危ないから俺らに任せて」

幾人かの男性たちが声をかける。が、その佐奈と呼ばれた娘は手際よく罠を外してしまった。

「帰りなさい」

言われるがまま鶴が飛び立つ。佐奈はそれに手を振った。

「…仏様のための日に殺生するわけにはいかんからな」

村の重鎮らしき壮年の男性が呟いた。

「皆さん、祖父のためにありがとうございます」

佐奈は頭を下げた。

二日前、佐奈の祖父・勘吾郎が亡くなった。祖父ひとり孫ひとりの家族であったから、佐奈は一人ぼっちになってしまったのだが、気丈に喪主を務めあげていた。まるで花嫁衣裳のような白の着物は喪服だったのだ。ただ、勘吾郎が高齢による大往生であったことが心の救いであった。彼女の両親は彼女が幼いころに若くして流感で亡くなっていたからである。また、村の長老ともいえる存在であった勘吾郎を慕う者たちは多く、まるで自分の親や祖父が亡くなったかのように皆は佐奈を手助けしたため、佐奈は取り乱すことなく祖父を見送ることができた。

佐奈が落ち着いて鶴を罠から逃がすことができたのはそういう理由だ。また、村人たちがそれを許したのは、葬式のために殺生を避け精進料理しか口にしない期間となっていたからであった。村人の言うとおり、罠は片付け忘れだったのである。

そんな人間側の事情を知らない彼にとって、可愛い人間の女の子に助けてもらったという事実は衝撃的なものであった。

(お佐奈と呼ばれていた…可愛くて優しいお嬢さん…)

彼の体に何かが駆け巡った。

鶴は番を作る生き物だ。生涯その番と添い遂げる生き物だ。

まさか、人間の娘を自分の番として求めてしまったのか!!

「それは当然のことだよ、『市次郎』」

混乱する鶴の元へ、十歳ほどに見える一人の子供が現れた。…いや、一人ではない。一柱、である。まだ若き、この辺りの土地神であった。

自然に生きる者たちにとって、神というものは本能的にわかる。鶴である彼もまた、土地神を自然と上位の存在として受け入れていた。

(神様、『市次郎』とは誰ですか?)

「本来の運命どおりに、君があの村で人として生まれていたら貰うはずだった名だ」

(人として…!?)

「僕は君に詫びなければならない、本来君は人だったはずなのに、間違えて鶴に生まれてきてしまった」

(神様、私は人だったのですか?鶴のくせに人里で暮らしたいと思っていたのは、そのせいだったのですか!?)

「そう、君は本来こうだったんだ、『市次郎』」

土地神が手をかざすと、大きく美しい丹頂鶴の身体が縮み、人間の青年の姿へと変わった。

「人の、身体…!?」

翼がない。空が飛べない。でも、人間と同じ腕や手があった。ぺたぺたと触った顔にも、羽毛や嘴はなかった。慌てて水鏡に姿を映してみれば、色白の肌に漆黒の髪、白黒模様に僅かに紅色の部分が含まれた着物。どこか丹頂鶴の面影は残っていたが、どこからどう見ても人間の青年であった。

「我が家に来なよ、そこで人として生きるための知識を簡単に授けてあげるから」

土地神が指し示した先には、神社があった。

ご神体が祀られている社の中にて、市次郎は慣れない正座をする。

「ここの神主には話を通してある、君は神主の遠縁の息子ということにして、これからは本来のように人として生きるんだ」

土地神はさらりと言う。奥にいた六十ほどの老いた神主が、土地神に向かって深く礼をした。

「いいんですか?」

市次郎は顔をぱっと輝かせる。心がこんなに軽いのは初めてのことであった。人間の姿になったことで、魂と身体がようやく馴染んだからである。

一方で土地神は苦々しく笑みを浮かべて、

「何故今までそうしなかったのかと、今回のことで縁結びの神に大目玉を食らってしまったよ」

と明かした。

「縁結びの神様…ですか?」

「市次郎、君がこの前出会った『佐奈』という村娘なんだけどね」

「佐奈…!」

その名と共に彼女の姿を思い出すと、再び市次郎の体に衝動が駆け巡った。あの可愛く優しい女の子。もしこの姿で出会ったなら、人として話しかけてくれるだろうか。市次郎、と名を呼んでくれるだろうか。

しかし、土地神はさらに衝撃的な事実を告げる。

「彼女は君が人として生まれていたら、結婚するはずだった娘なんだよ」

「け、結婚!?あの子と、ですか!?」

「君はあの村の庄屋の分家で、次男坊『市次郎』として生まれ、村で年頃の釣り合う『佐奈』の家にお婿に行って、彼女の家の畑を守ることになっていたんだ…それなのに鶴と人で出会ってしまったものだから、まあ縁結びの神としては大激怒だよね!あと、おじいさんが亡くなって耕す人がいなくなったから畑も悲しんでるね…皆にこっぴどく叱られてとんでもない目に遭ったよ」

土地神は相当怒られたようだが、神様の間でも仕置きということがあるのだろうか。

だが市次郎にとっては、大事なところはそこではない。鶴として生きてきた市次郎にとっては、結婚というのは番になるということを意味している。

「土地神様、もしかしてとは思いますが…人になったということは、私があの娘を番にしてもいいということなのでしょうか?」

人間の番がどういうものかは知らないが、鶴の場合は協力して巣を作ったり子供を育てたりするので同じようなものだろうか…そう考えると市次郎は、何故か身体がムズムズするような気がした。

「いいも何も、皆がそれを望んでいるよ…縁結びの神も、畑の精も、あとそれから村の庄屋の家で祀っている福の神もね」

土地神は笑顔で答える。

「いいんですか!」

市次郎は嬉しくてたまらなかった。あの可愛くて優しい佐奈を妻にできる可能性があるのだ!

「ほら、じゃあ人としての生活について簡単に学ぼうか?神主が教えてくれる」

土地神に言われ、市次郎は大きく頷いた。

何故『庄屋の家の福の神』がそれを望むのか、彼はまだ何も疑問を抱いていなかった。

■□■

市次郎が人としてある程度問題のない生活が送れるようになったのは、雪解けの少し前であった。とはいえ、人間と鳥は体のつくりが違うので、食事など生理的なものはある程度体と共に自動的に切り替わったようだった。例えば、人になった途端、湿地にいる田螺たにしをそのまま生で食べようなどとは思わなくなったのである。また、『本来あるべき姿』に変化させられたおかげで、市次郎として生きていれば身につけていたであろう作法や常識も身についていた。服も着られるし箸も使えて、決して赤子のようなことにはならなかった。ただし、その『本来あるべき姿』というのはあくまで土地神が考える『村の青年』の姿であったので、やはり現実とはズレがある。細かい部分は、後見人となった神主から色々と学ぶ必要があった。

神主は土地神の声が聴ける数少ない人間で、歳は還暦に手が届くかといったところ。普段から村の子供に文字を教えているだけあって説明上手で、市次郎は様々な知識を吸収していった。

学ぶことにより、市次郎は自分が佐奈と結婚するためにはいくつもの準備が必要ということがわかった。いきなり『お佐奈さんのお婿にならせてください』などと言っても、上之田通村の庄屋が許可しなければ許されるはずもなく、それどころか村に住むことすらできない…それを知った時、市次郎は絶望した。本来の場所に生まれていれば、全く問題にならなかったことである。

そういうわけで、とりあえず市次郎を神主の仲介で村に馴染ませ、佐奈と縁組できる機会をうかがうことになった。

「君の『本来の両親』とも親子のように過ごせればいいんだけれどね」

と、土地神は言う。

「親…」

市次郎の本来の家族は庄屋の分家筋、庄屋現当主の従兄弟一家であった。父は弥次郎、母親は加屋。兄の藤一郎と、年の離れた妹の古屋がいる……そう聞かされた市次郎は、嬉しいような不思議なような、くすぐったい気持ちになった。鶴のときの親には卵の時に見捨てられ土地神の神通力で生かされてきた市次郎にとって、親というものは憧れであったが…いきなり子供にならせてくださいというのはとんでもなく図々しいことで、絶対に無理なのだ。

そして、婿入りについても同様である。祖父から畑や家を相続したのは佐奈なのだから、いきなり現れた男がお婿にしてほしいと言ってきたところで拒まれるのがオチだ。財産を持つ向こうが選ぶ側なのである。

「…まあ、完全に拒絶されたら鶴に戻っていいよ、縁結びの神の力すら及ばないともなれば僕にはどうしようもないからね」

「戻れるものなのですか?」

「人の姿になっていても生え変わった羽根が落ちるくらいはあるから、その鶴の羽を神棚に捧げて糸に換え、それを織って羽衣にすれば体を鶴に変えられるよ」

「…機織りなどできませんが」

「そうだね、あの辺りだと庄屋の奥方…は今は無理か?君の『母親』、そして佐奈くらいだね…いずれは兄嫁や古屋もできるようになるかな?」

「それを頼めるほどの仲なら鶴に戻る必要はないと思うのですが…?……わかりました、戻らぬ覚悟の上でやれということですね」

いい加減なものだなあ…と、市次郎は溜息をついた。

何はともあれ、市次郎は神主に連れられて上之田通村へと足を踏み入れた。

「この市次郎、とある武士が捨てた子なのですが、商いに向かず、いよいよ行くあてをなくしましてな、かねてより縁のある我が神社を頼ってきたのです」

神主が言うと、気の良い庄屋の現当主、徳一郎は同情してくれた。

「それはご苦労なさったことで」

「このような見た目ですが意外と体力はありますから、田畑仕事に使ってやってくれませんか」

「よろしくお願いします」

市次郎は頭を下げる。

…このような見た目というのは、よく言えば色白で高貴な容姿、悪く言えば野良仕事など出来なさそうな容姿だからである。市次郎は人の姿になったが、ところどころ丹頂鶴の特性が残っている。この見た目ゆえに他所の村の農夫などと名乗ることは到底無理で、武家の落胤という『設定』にすることになった。なお、体力があるのは、鶴が本来何十里も旅をする渡り鳥だからだ。

「元気な働き手が増えるのは村としてはとても助かる、おぬしの紹介であれば安心だろうし、こちらからもぜひお願いしたい」

村の長として徳一郎は笑顔で市次郎を受け入れた。

(人の世では、後見人がいるかどうかということがとても重要なのだな)

礼を言いながらも、人間の社会というものは鳥とは別の面倒なことがあるのだなと思う市次郎だった。

「さて、耕してもらいたい田畑はあるが、今は空き家がなくてな…どこに住んでもらおうか?物置の中二階でもよければ下宿させてもよいが、愚息が文句を言いそうだな…若い美しい男はすぐに女に手を出すとあやつは思い込んでいるのだ」

徳一郎は困ったように呟く。

(…妻に男が近づいたら誰だって嫌だよな)

鶴も番となった相手に近づく者が居たら全力で攻撃を仕掛けて排除する。息子の気持ちは理解できなくもない市次郎であったが、

「若旦那は気難しい方でな、生まれた時からの世話係のばあやと、その言うことをよく聞く台所係くらいしか住み込みを認めておらん…まだ嫁はとっていないから、女というのは若い女中たちのことじゃろう」

と神主が耳打ちしてきた。

「妻のことではないのですか…?」

市次郎は少し驚いたが、そういう方面に厳しい男なのだろうか。だが、何にせよ誤解を与える行動は慎みたかった。

「弥次郎殿のところはいかがか」

と神主が助け船を出す。

「頼んでみよう」

案外あっさり、本来の親のところに行けることになりそうだ。

「市次郎、間借り先にその糸を渡しなさい」

「はい、売らずにとっておいた最後の品です」

市次郎は青苧あおその糸を目いっぱい巻いた糸枠をいくつか、瓶かめから取り出してみせた。これは『糸を隠すなら糸の中』ということで、抜けた羽根を糸に換えたときに瓶に糸枠を隠していても怪しまれないようにするためである。今入っている糸は土地神から餞別として貰ったものだ。

「おお、これはなかなか良い糸だ…ここに来る前は糸の売り買いを?」

「は、はい、商才はありませんでした」

市次郎は神主に言われた通りに答える。そして、神主から習ったことを思い出していた。

他所の村では庄屋が私腹を肥やしているところもあるらしい。田畑を高値で貸したり、物の売り買いの仲介料を取ったり、など。しかし、ここの庄屋の現当主は人格者なので村人たちが困ることはない。福の神が庄屋の屋敷に『ついて』いるのはそれが理由である、と。

確かにそれも納得の気前の良さだな、と市次郎は思うのだった。

徳一郎は自ら市次郎たちを弥次郎の家へと案内してくれた。

「弥次郎、いるか」

「おお、徳一郎、どうした」

後に聞いたことだが従兄弟同士のこの二人は年が近く、公の場でこそ本家と分家の当主として振る舞うが、普段は友人のような関係だそうである。

「土地神様のところの神主が人材を紹介してくれた」

「ほう」

「市次郎どの、というそうだ」

「市次郎……」

その名を聞いて何か思うことがあったらしい弥次郎は、市次郎の顔をじっと見た。

(この人が、俺の父親になるはずだった人)

市次郎は不思議な気分だった。本来であれば親子であったはずの二人で、市次郎は本来あるべき姿に変化していたから、顔立ちが似ているのである。

「そうか、どこかで見たことがある顔だと思ったら、若いころの弥次郎に瓜二つだ」

徳一郎は目を丸くする。

「おお、このような偶然もあるのじゃな」

大げさに喜んで、他人の空似を協調する神主。まあ、正体が鶴というところだけ隠せれば、『死んだ息子の生まれ変わり』だと明かしてしまうのも手ではある、と神主は考えていたのだが。

「顔立ちは似ているけれど、市次郎さんは色白でまるで町の人みたいねえ」

そう言うのは弥次郎の妻、加屋。

「お武家さんの血を引いているそうだ」

「へえ、そうなのか?」

「あ、いえ、これは日に焼けにくい質なもので…」

「そこは全然違うのね、この人は夏は真っ黒に日焼けしているもの」

夫にそっくりな青年が現れても浮気を全く疑わないあたり、愛情と信頼関係の深さが伺える。まるで鶴の番のように仲が良いなと、市次郎は嬉しくなった。

神主は、市次郎の(設定の)身の上について弥次郎に説明したあとで、これから村で働かせることを話した。

「弥次郎、市次郎殿を下宿させてやってくれるか」

「まあ、うちはお前のところと違って住み込みの使用人がいないから部屋は余ってるしな、構わないぞ」

「恩に着る」

「ありがとうございます!」

市次郎は頭を下げた。

やっと会えた本来の家族。今は正体を明かすことはできないけれど…一緒に暮らせるとわかっただけで、ここまで心が温かくなるのだ。

徳一郎は田畑の見回りに向かい、これからは弥次郎が案内を行うことになった。

縁側で裁縫の練習をしていた八つになる妹・古屋は、市次郎を紹介されると

「新しい兄上!?兄さまの代わりに遊んでくれる!?」

と無邪気にはしゃいだ。

「この子はどうも年の割に幼くて…色々とお稽古させているんだけどこの調子で、そろそろしっかりしてもらわないと困るんだけどねえ」

加屋は苦笑する。

「兄さまは義姉ねえさまのことが大好きだから、最近は義姉さまとばかり遊んでいるの!お手玉作ってくれるから私も義姉さまは好きだけど」

古屋は頬を膨らませる。

どうやら愛妻家は遺伝のようだ。市次郎は自分が鶴だから番となる佐奈を恋しくて恋しくてたまらないのだと思っていたが、人間に生まれていても大して変わらなかったのかもしれない。

「夫婦仲がよろしいんですね」

「…まあ、そういうことだから、藤一郎のいる離れには近づかないようにしてやってくれるか」

弥次郎は渡り廊下の先の建屋を指さす。

「わかりました、手を出すつもりがなくても妻に若い男が近づいてくるのは誰だって嫌ですからね」

市次郎が返すと、弥次郎は目を逸らして気まずそうに言う。

「ああ、まあ、そういうことにしてやってくれるか」

すると神主が市次郎にまた耳打ちをした。こちらも気まずそうに。

「弥次郎の息子夫婦には、先の正月に子宝祈願を頼まれたからのう…」

…つまり、兄は昼間っから子供を作るために致している『かもしれない』ということだと、市次郎はようやく察した。

(羨ましい…)

それが、市次郎の正直な感想であった。

自分も佐奈と早く番になって、子供を作れたらどんなにいいだろう。しかし現段階では自分と佐奈は知り合いですらないし、人間はそういうことを考えているのも隠した方がいいと教えられていた市次郎は、必死に冷静な顔をしてそれを隠し通そうとした。

「嫁が『頑張れ』と一声かければ人一倍働くぞ、我が息子ながら単純な奴だが、働かないよりはずっとマシだな」

と、弥次郎は苦笑するのだった。

そしてついに、弥次郎と古屋は市次郎を連れて佐奈の家に向かった。家は離れているが、土地自体は隣り合っているとのことである。

(い、いきなり佐奈に面会なんて…!)

市次郎は慌てたが、市次郎が村に受け入れられたのは佐奈の家の田畑を耕すためなので当然のことである。昨年までは勘吾郎が老体をおして田畑の世話をしてそれを村人たちが手伝っていたのだが、今年からはそれができなくなった。収入が村単位である以上は休耕地を出すことは村の損害なので、小作人のなり手の紹介が間に合わないのであれば皆で頑張って手分けするしかないと話していたところに人手が向こうからやってきたのだから、今すぐにでも契約してほしいのだ。逆に言えば、田畑が足りなければ市次郎は村に住まわせてもらえなかったかもしれないということだ。

「市次郎、お前はこの家の田畑を借りて米や野菜を作るんだ、それはわかるな?」

「は、はい!」

「作物の取り分は二人の話し合い次第だ!話がうまく進んだら証文を作るから、その時はまた庄屋に報告だ」

「はい!」

意気込んで家の前に立つ市次郎。

「佐奈は機織りが得意だから、その糸も佐奈に織ってもらって庄屋に持って行くといい、色々と交換してもらえるぞ?」

加屋は家のことが忙しいから必ず佐奈に頼めよ、と弥次郎は付け加える。

そして弥次郎がドンドンと玄関の戸を叩いた。

「佐奈、弥次郎だ!お前に客人だぞー」

「はい」

ゆっくりと引き戸が開けられ、中から愛しい佐奈が顔を出したのだった。

(か、可愛い…!!)

市次郎はその瞬間もう一度恋に落ちたと言ってよいだろう。

あの日見た喪服の彼女は凛として美しかったが、普段はこんなに可愛いのか…

挨拶もできず佐奈に見惚れている市次郎を、弥次郎が小突いた。

「一目惚れしてる場合か」

「はっはい!!い、市次郎と、申します!」

慌てて市次郎は佐奈に頭を下げる。弥次郎が佐奈に簡単な事情を説明すると、佐奈は二人を家に上げ茶の間に通した。

佐奈の家は弥次郎の屋敷ほどではないが、部屋は小さい納戸を含めると六つあり、他の小作人の家よりは十分大きかった。隣の部屋は佐奈が生活しているらしく手机が置かれており、糸車、績む途中の青苧の束などもみられる。入り口から見えない部屋はおそらく勘吾郎が寝起きしていた仏間であろうが、もう一つの大部屋には不釣り合いな機織り機だけがどんと置かれていた。

「改めて言うが働き手が見つかった、神主さんの紹介だ」

「ありがとうございます、弥次郎おじさん」

佐奈は深々と頭を下げる。

「お佐奈は娘同然に面倒を見ると約束しただろう、勘吾郎のじいさんと!…とはいえ、向こうから時機良く持ちかけられただけで、儂は何もしていないけどな」

弥次郎は豪快に笑った。

村に来たばかりの市次郎のために、弥次郎は村の仕組みを簡単に説明してくれた。

上之田通村はおおまかに三つに分かれており、細い小川を挟んで隣村に接している『村東』、一番広く庄屋の屋敷もある『村中』、広い川に面している『村西』の地域がある。それぞれの地域の家を一つの『組』として庄屋が管理しており、それぞれの組をまとめる『頭』の家が存在する。庄屋分家は村中の組頭、佐奈の家は副組頭という役目であった。東西の組頭の家そして佐奈の家は、庄屋一族と同じくこの村の開拓に関わった古参の一族にあたるそうだ。だから、庄屋一族からの借り物ではない自分の田畑を十分に持っている。

しかし、佐奈の両親にあたる若夫婦は早くに亡くなり、このたび主である勘吾郎も亡くなって、ひとり寂しく佐奈が暮らすだけになってしまったのだという。

「あ、あの、改めて…市次郎と…申します」

市次郎の顔は誰が見ても真っ赤であった。女慣れしてないなあ、と弥次郎は苦笑する。

「私は佐奈と申します、我が家の田畑をお世話していただけるそうで、本当にありがとうございます」

「あ、いえ……あ、こ、これ、土地を借りる前金として」

市次郎は瓶いっぱいに詰められた糸枠を差し出した。

「え!?格安にしようと思っていたのにいいんですか」

「佐奈、ありがたくもらっておけ!勘吾郎じいさんが亡くなって暮らしも大変だろう」

「…じゃあ、もらっておきます」

佐奈は少し恥ずかしそうに俯いた。市次郎の好意は誰が見ても丸わかりで、当然佐奈にも伝わる。しかも市次郎は自覚していないが、彼は美男子である…色白で高貴な見た目なのに意外と筋肉質という、鶴の特徴を残しているからだ。佐奈は十七で結婚適齢期、生活に追われてそれどころではなかったとはいえ、恋愛に興味がないわけではない……要は佐奈の側も、見た目と向こうの好意に釣られたとはいえ、一目惚れに近かった。

若い男女が出会えばそうなってもおかしくはないか…弥次郎はやれやれと溜息をついた。

その後はまだ雪が解けきっていない田畑を見て回り、これから耕すことになる場所を確認してから、市次郎は弥次郎の家に戻った。

夕餉として大根と団子の汁が出され、市次郎は家族の皆とそれを囲むことになった……しかし驚くことが一つあった。いつの間にやら、家族の中に佐奈が混ざっていたのである。

何故…と市次郎がぽかんとしていると、加屋が言った。

「お佐奈によからぬことを企む奴がいないとも言えないからねえ」

「うちの村の小作人たちはみんないい奴らだから疑うようなことはしたくないんだがな、若い男が周りに多いとな」

佐奈を手籠めにして無理矢理婿になってしまえば、あの田畑は自分のものになる…そう企む輩が出てきてもおかしくない状況であることを、皆は懸念していたのだ。ただ、土地神と縁結びの神に見守られている佐奈にそのようなことをすれば天罰が下されるであろう。今までそういうことはなかったのだということも市次郎にはわかった。

「でも市次郎も若い男だぞ、例外扱いするのはよくないよな?」

夕餉の時間になってようやく顔を合わせることができた兄・藤一郎が言う。

「は、はい、十分に警戒してください」

コクコクと市次郎は頷いた。自分が一番やらかしそうだと分かっているからである。正直でよい、と弥次郎は苦笑した。

「それじゃあ、市次郎の住む家が建つまで、女性陣は西奥の部屋に集まって寝ましょうか」

加屋が言うと、古屋は「わーい!」と佐奈に抱き着いて喜んだ。どうやら佐奈に懐いているようである。

「じゃあ、旦那様、頑張って家を建ててくださいね」

藤一郎の妻、紺がおっとりと言った。

「…え、じゃあ家が建つまで俺、紺と別室なのか?」

「あ、粗末なものでいいので…」

「当たり前だ!さっさと建てるぞ!!」

度が過ぎた愛妻家である藤一郎は、弟の頭を掴んで叫ぶのだった。