第5話 平穏な日々の後に
あの恐ろしいことがあった新年の宴会から間もなくして、庄屋の奥方が亡くなった。
地蔵盆の時の様子を見ていた村人たちは皆彼女を哀れみ、冥福を祈った。
庄屋の屋敷は、名ばかりの女主人も失ってしまった。これまで奥方の名前で出していた挨拶の書状や贈答品をこれから誰の名前で出すかすら決まらず、揉めて滞っている状態だ。見かねた徳一郎が加屋に頼み込んで、村の女性たちが手伝いに入ることでどうにか最低限の状態を保っている。使用人たちの統率がとれず、庭も荒れてしまった庄屋の屋敷は、物悲しい雰囲気を纏っていた。
そのため、本来なら息子は一年間喪に服さなければいけないところを、予定を早めて隣村のお嬢様が輿入れしてくるのではないか…と皆は噂する。お嬢様が何人か侍女を連れて来れば万事解決だからだ。問題は、結婚くらいであの馬鹿息子がそう簡単に改心するとは思えないことなのだが。
ちなみに女中頭の婆は、新しい奥方に媚びへつらうための練習を事欠かないそうだ。一方的に嫉妬している対象の加屋にこのまま仕切られ続けるよりマシという気持ちもあるのだろうが、しっかりしているとはいえまだ十三の子供、おだてればきっとうまくいくだろう、と考えているらしい……というのは、情報源の久万の見解であった。
手伝いに行くたびに女中頭は加屋にきつく当たってくるらしく、無理矢理従わされている女の子たちがいつも申し訳なさそうな顔でこちらを見てくるから居た堪れないわ…と、加屋はよく呟くのだった。
そんな噂や悪い話はあるものの、加屋たちの頑張りもあり、それから数か月は特に村には何も起こらなかった。そして佐奈は無事出産を乗り切ることができた。生まれたのは可愛い娘で、佐保さほと名付けられた。
市次郎は幸せだったが、佐奈と佐保が産屋から戻ってくるまでの間は家に一人なので、当然寂しい。そんな市次郎を見かねてか、藤一郎が声をかけた。
「お前今夜うちに来い、子守りをさせてやる」
藤一郎の息子・竹丸は庄屋分家の大切な跡取りだ。本当に手が足りないなら子守りを雇うだろう。要は、市次郎に子供に慣れておけと言いたいのだ。
「確かに、忙しい方が気が紛れると思います」
市次郎は言われるがままに兄についていった。
藤一郎は市次郎を部屋に上げると、竹丸を抱いて戻ってきた。竹丸はひしっと父親の袖を掴んでしがみついており、その様子が大変可愛らしい。
「どうだ?お紺に似てるだろう?」
「確かに目元が似ているような…」
「そうだろう!」
父親の先輩として色々教えてくれるのはありがたいが、親バカを絵に描いたような藤一郎である。
「もう竹丸は首が据わってるからこの抱き方でいいが、生まれたばかりは思ったよりぐにゃぐにゃだから気をつけろ、頭を支えろ」
「なるほど」
「背負うときの紐の巻き方はだな…」
そうこうしているうちに竹丸が泣き出した。すると、奥の襖が勢いよく開いて、桶を抱えた紺が現れた。
「はいはい、おしめね」
「あまり臭わないから小便だろう」
「よしよし竹丸、気持ちが悪いのを治しましょうね」
紺は竹丸を受け取ると床に寝かせ、手際よくおしめを交換した。
だが不機嫌は治らず、ふぎゃあふぎゃあと竹丸は泣き続けている。
「もしかして眠いのか?それだと父様ととさまじゃあだめだな、こいつはお紺が抱っこしていないと寝ない」
「向こうで寝かせましょう」
あのおっとりした紺も、すっかり母親の顔であった。
紺と竹丸が去った後、藤一郎は市次郎に言う。
「まあ、お前もすぐにこうなるよ」
「…はい」
「産屋にいる間はどんなに偉い男も近づけなくて安心安全なんだから、今のうちに色々と対策しておけ」
「……はい」
市次郎の表情が一転、険しくなった。
あの新年の宴以来、徳兵衛が何かしてきたということはない。だが、数日前に不穏な噂が伝わってきていた。徳兵衛が父親に無断で屋敷の十作という下男に暇を与えてしまい、親子喧嘩になった…という話である。それはつまり、家の中で権力闘争が起きているということ、徳兵衛は父親の言うことを聞くつもりがないことを意味していた。仮に親子喧嘩が大ごとになれば、跡取りが徳一郎から別の者へと替わる可能性がある。
「あのバカ若旦那ではなく、うちの親父が跡取りだって噂も出てるよ…同じ年頃なのに跡取りってのも変な言い方だけどな」
「従兄弟ですからね」
「………そして親父は意外と乗り気だ」
藤一郎がぼそりと呟く。意外と野心家ということなのだろうか。だが、弥次郎は村の利のために動く現実的な男というのは確かだ。市次郎は、前に加屋が『弥次さんはおとなしく尻に敷かれる性質というわけでもないでしょう』と評していたのを思い出した。
「まあ、その方が村のためにはなりますよね」
「本家が駄目になったら何とかするのが分家の義務だからな…俺としては穏便に解決するのが一番いいんだが、望みは薄い」
藤一郎は正直荷が重い、と言いたそうだ。弥次郎が次の庄屋であるならその次は嫡男の藤一郎である。上に立つ重圧は勿論のこと、(あの徳一郎が嫡男の教育に失敗するほどに)親子で過ごす時間は少なくなる。当たり前の感情だと市次郎は思った。
「庄屋の負担を軽くする方法はないんですか?」
「ああ、親父が言ってたよ、俺やお前だけじゃなく伝吉や利造、それから村東や村西の若い衆を集めて、優秀な奴らに役を与えて対価を払えばいいって」
「…そのお金はどこから?」
「俺もそれは訊いたよ、そうしたら今贅沢している奴の分から払えるから問題ないって」
「徳兵衛の…金ですか…」
「親父だって分家の立場はわきまえてる、同じ方法を庄屋様に提案はしたと思うぞ…でも庄屋様は徳兵衛のやつを放り出すことを望まなかったんだな……庄屋様は息子を追い出さないかわりに鍛え直そうとしているみたいだが、その結果が今の親子喧嘩だよ、もうこじれてしまってどうしようもないんだ」
(…庄屋様ごと見限ることを決めた、のか…)
役目を果たす覚悟を決めた父親に、市次郎は畏敬の念を抱いた。
「しかし、父上が村を仕切るようになったら…」
なお、市次郎は弥次郎のことを堂々と『父上』、加屋を『母上』と呼ぶようになっていた。市次郎が弥次郎の次男の生まれ変わりというのは、すっかり村の共通認識と化している。最初こそ鶴らしく色白で高貴な見た目だった市次郎だが、一年間野良仕事を続けていれば多少はシミや傷ができる。そしてますます弥次郎や藤一郎に似ていくのだ。さすがにここまでくれば誰だって気づくというわけである。
だが、村人たちは徳兵衛のように、市次郎のことを『死んで蘇った化け物』と言うことはなかった。むしろ『親孝行するために戻ってきた息子』だと褒めている。
「親父だと何か困るのか?」
「いや、村中の組頭がいなくなったらどうなるのかって」
「そりゃあ副組頭のお前が昇格するに決まってるだろ」
「えっ…」
それを聞いた市次郎は、自分が大きな波に呑まれていくのを感じた。
□■□
それでも、またそれからしばらくの間は平穏で、市次郎は憂いを忘れることができた。
出産を終えて戻ってきた佐奈は大人びて美しさを増し、娘の佐保はふにゃふにゃと頼りないが大層愛らしい。
「佐保、古屋が使っていた毬をもらってきたぞ~」
「まだ早いでしょう…這うこともできないのに」
市次郎は兄の藤一郎同様に、わかりやすく妻と子供にべったりであった。
市次郎が何よりも神々しいと思ったのは、佐奈が佐保を抱きかかえてお乳を飲ませる様子である。鶴はもちろんそんなことはしないし、野に生きる獣たちも愛おしそうに赤ん坊を抱きかかえるということはしていなかったからだ。
「幸せだ…こんなに幸せでいいんだろうか」
「大げさよ」
苦笑する佐奈であったが、娘が一生懸命お乳を飲んでいる姿を見てほっとしていたのも事実である。
「佐奈?」
「…もし卵や鶴が生まれてきたらどうしようと心配していたけど」
どうやらそれは杞憂に終わってくれたようだと、佐奈は微笑む。
「佐奈はその時にもちゃんと供えていたじゃないか、俺と違って」
市次郎は言う。佐奈は気丈にも、昨冬のうちに『鶴の羽衣』を一反織り上げていたのだ。子供を守るためなら、母はどれだけでも頑張れるのである。
「佐保は佐奈に似てほしいな」
「どうかしら、まだわからないわね」
「似てくれるように毎日神棚に願うとするよ」
「…もう」
父が母にじゃれつくその様子を、佐保はきょとんとした目で見ていた。
そんな佐保がすくすく育ち、寝返りを覚えた頃。
その年の稲刈りを終えたことで一気に疲れが出たのか、徳一郎が風邪を引いて寝込んでしまった。三日経っても高熱が続き、回復する様子はない。
「隣村の医者を呼んでも、庄屋様の熱が下がらないそうよ」
「おいおい、流感じゃないだろうな…!」
「十何年前の時みたいになったら冗談じゃないぞ!」
村人たちは怯えて噂をする。佐奈の両親が亡くなったのは、流感が猛威を振るった時であった。現在十五前後の若者が村中地域には利造の弟一人しかいないということからも、多くの赤ん坊が命を落としたことがわかる。
「どうしよう、佐保がかかったら…」
当時のことを思い出して青い顔をする佐奈を、市次郎は励ますのだった。
ひとまずこういう時は土地神に様子を聞くのが一番である。市次郎は農作業の合間に急いで神社を訪れた。
だが、いつもならすぐに気づいて出迎えてくれる神主の姿はなく、境内はしんと静まり返っていた。
「…あれ?神主様はお留守なのか」
市次郎が独り言つと、いつものように子供の姿の土地神が現れて答える。
「稲刈りが終わった三日くらい後だったか?伊勢の方に向かうと言っていたぞ」
「結構なお年なのに、長旅ですね」
上之田通村の場合、順番に一つの地区から三人ほどの者を選び、村の代表としてお伊勢参りに向かわせている。今年は村東の者が参る番だ。だが、普通稲に関する作業が全部終わった頃に出るはずで、稲刈りの三日後とは随分早い。
「ちょうどその頃に庄屋から福の神が一時的に避難してきていてな…私にはどうしようもないと言ってしまったから、神主も焦ったのだろう」
土地神がちらりと向こうを見やると、太った猫が毛繕いをしているのが見えた。聞けば、庄屋屋敷の福の神が化けた姿だそうだ。
庄屋の繁栄は村の繁栄に直結している。福の神が屋敷から逃げ出したということはつまり、村の危機だ。
「そんな願掛けをしなければいけなくなるほど深刻なことに…?」
佐奈と同じく顔を青くする市次郎に、土地神が言う。
「福の神が出て行ったせいで、屋敷の主が熱を出しているね」
「え…あ、熱はそれが原因なのですか?流行る病でないのなら不幸中の幸いですが」
そう呟いた市次郎の足元を、太った猫が駆け抜けていった。
土地神は遠い目で語る。
「…なぜあいつが家を出たかわかるかい?あの家のボンクラ息子が悪い方に知恵を付け始めてきたんだよ……隣村のしっかり者のお嬢さんと夏に顔を合わせたみたいだけど、結婚がよほど嫌なんだろうね」
「ということは、佐奈を本気で狙っているということですか!?」
慌てて問いただす市次郎だが、土地神は
「さあ、その辺は縁結びの神に聞いてみないと…専門外なんだ」
と、はぐらかす。
「…佐奈をしっかり守らないと…!」
すぐに家に舞い戻ろうとした市次郎に、土地神は言った。
「ただ、福の神はどちらかと言えば、ボンクラ息子の悪だくみに庄屋が気づかなかったことに幻滅して出てきたようだね…人は我が子可愛さに目を曇らせてしまうものだけど、このままだとこれまで頑張ってきたことが水の泡だよ」
「…え?」
どういう意味か、と尋ねようとした市次郎だったが、土地神はさらに続ける。
「お佐奈は『鶴の羽衣』を織って君を助けてくれるような人なんだから、自分だけが一方的に守るなんて思わないことだよ」
「…!」
本質を突いたその言葉に市次郎が固まっているうちに、土地神は姿を消し、福の神の猫は丸くなって寝てしまった。
市次郎は、土地神の言葉を思い返して反省しながら家に戻った。
佐奈が徳兵衛に狙われているという事情はあったものの、佐奈は怪我を恐れずに鶴を罠から助け出してくれるほど強い女性だったことを忘れかけていた。それに、『鶴の羽衣』を一反見事に織りあげて、未来に起こるかもしれない災いに備えていた。弱いから守らなければいけない!と決めつけることは、溺愛とは似ているようで違うのだ。
それに、佐奈を好きだ可愛いと愛でるためだけに自分はここに来たのではない。佐奈の祖父が遺した田畑を引き継ぎ、副組頭の役職もこなしてこそ佐奈の『婿』の役目を果たしたと言えるだろう。
(これから何があっても、佐奈と手を取り合い共に戦わないとな…)
市次郎がそう心に誓った、その時。
「あらあ!十作さん戻ってきたの!」
庄屋の家の方から、大きな女性の声…久万の声が響いてきた。
何事かと市次郎がこっそりと覗いてみると、みずぼらしい身なりをした中年の男が一人、庄屋の屋敷の勝手口でぺこぺこと頭を下げていた。
「ええ、旦那様のことが気になりまして」
「ものすごい勘ね!今旦那様は風邪をこじらせて寝込んでいて…でもきっと十作さんの顔を見たら元気になるわよ!いなくなったのを大層残念がっていたもの」
どこかで見たことがあると思ったら、数か月まで庄屋屋敷の住み込み奉公をしていた男…徳兵衛に暇を出されたあの下男であった。
(戻ってきたのか…)
やっぱり徳一郎の方が人望があるのだな、と市次郎は安心する。
まさかこれが大騒動の始まりであったとは、市次郎は勿論、他の誰も知る由がなかったのであった。
□■□
数日後。
刈り取った稲が乾くまでの間は、交代で見張りをしながら各々別の作業をしている。冬に備えて保存食を作ったり、木を加工して日用品を作ったりなどやることは沢山あった。
「あ~、う~」
「何か面白いものあったか~?」
天井を見上げながら声を上げ、たまに転がる佐保を横目で見ながら、市次郎は苦手な藁編みの作業を行っていた。
「佐保、機嫌いいわね~」
佐奈も障子を開いた状態で隣の部屋に座り、青苧の糸を績んでいる。
平穏な一日……のはずだった。
ドンドンドンドン!!と、家の戸が激しく叩かれるまでは。
「何かありましたか!?」
非常事態でも起きたかと、市次郎が引き戸を開けるや否や。
いきなり眼前に、鎌が突きつけられた。
「…!?」
声を出せず硬直する市次郎。
「市次さん!!」
慌てて佐保を抱き上げながら、佐奈が叫んだ。
「動くなよ、この詐欺師め!」
「村の田畑は渡さねえ!」
狼藉者の顔をよく見れば、十作を初めとする庄屋の屋敷に仕えている奉公人の男たち四人であった。
「詐欺師…だと?」
市次郎がおそるおそる尋ねると、男たちは市次郎を土間に抑え込み拘束した。
「やめて!乱暴しないで!」
佐奈が泣きそうな声で訴える。
すると、後ろから徳兵衛がにやりと恐ろしい笑みを浮かべて現れた。
「いやあ、十作に暇を与えたふりをして、城下町に行かせて調べさせていたんだ…こいつが本当はどこの誰なのか、をな…」
「…!」
市次郎は青ざめる。市次郎はとある武家の落胤だということになっているが、そんな武家は実在しない。糸の行商もしたことがない。それどころか、城下町など一度も行ったことがない。土地神が市次郎を鶴から人の姿に変化させたとき、神主がでっち上げた嘘の経歴だ。老獪な一面のある神主がここにいればうまく誤魔化してくれただろうが…
(まさか、神主様の留守を狙ってきたというのか!?悪知恵をつけてきたというのは、本当だったのか)
もっと真剣に対策を練っておくべきだった、と市次郎は後悔する。
「何か月も探したけれど何の手掛かりも全然見つからなかったんだよ!お前のような色白で若い男の糸売りなんて目立つのに、城下町で見たことがあるやつが一人もいなかったんだ!」
「う…」
「こいつが言っていることは全て嘘っぱちだ、そもそも生まれ変わりなんて都合のいい話があるか?分家の弥次郎にたまたま顔が似ているということを利用して、うちの村の田畑を騙し取るためにやってきた詐欺師だよ!!」
「…実の親とは…縁が切れた…」
市次郎は弁明するが、経歴が嘘というのが紛れもない事実である以上、下手な反論もできなかった。
「さあ、今までどうやって食ってきた?言えないような仕事をして食ってきたんじゃないのか」
市次郎は返す言葉もない。
「ち、違うわ…市次さんは詐欺師なんかじゃあ…」
佐奈も市次郎の親が実在しないことを知っているので、ただ黙って後ずさることしかできない。
「さぁすが若様、村の財産たる田畑を詐欺師から守るなんてご嫡男の鑑ですわ!旦那様も大変高く評価してくれることでしょう」
後ろから厭らしいはしゃいだ声を上げる老婆がいる。徳兵衛をボンクラに育て上げた、あの悪名高い女中頭だ。
「ヒッ…!!」
そのあまりに酷い顔に、佐奈は思わず目を背けた。
ああ、これで加屋の息子を奪ってやれるぞ…ようやく戻ってきた愛しい息子を奪ってやれるぞ…そう、その目が語っていた。憎い妬ましい女に一泡吹かせられることが嬉しくてたまらないという、歪んだ顔であった。加屋が庄屋屋敷に出入りするようになって、ついに糸が切れてしまったのだ。自分の贅沢よりも加屋を害することを優先したのだ。
「どうだ?見下していた奴らにこんな風にされる気持ちは」
徳兵衛が市次郎の腕を蹴る。
「見下して、なんて…」
「どうしてこいつらが私の言うことを聞いてくれたと思うかい?いきなり上之田通村に現れて、何の苦もなくお佐奈に惚れられて副組頭の地位を相続したお前のことを疎ましく思う者なんていくらでもいるんだよ!ましてやその男が武家の息子でも何でもない、自分と同じどこぞの馬の骨であったらな!」
どこぞの馬の骨。そう言われた奉公人たちは面白くないという顔で一度は徳兵衛の方をギロリと睨んだが、市次郎の拘束をやめることはなかった。
「っ…!!」
今度は背中を踏まれ、市次郎の顔が苦痛に歪む。
「これが『孝行息子』の正体だって言ったら、弥次郎や加屋はどんな顔をするだろう」
「ええ、本当にそうですわね、若様ぁ」
心から嬉しそうに女中頭が言う。
「いつもいつも人を『親不孝者』と馬鹿にするからそのような目に遭うのだ、因果応報だと嗤ってやろうじゃないか…!」
徳兵衛が声高らかに宣言する。
市次郎は今回の事態をようやく理解した。
ああ、女中頭が加屋を妬んだように、徳兵衛は市次郎を妬んでいたのだ。
悪い方に知恵をつけ始めたと土地神が言っていたが、それまでの怠惰な生活を改めて策を練るほどにこの男は市次郎が妬ましかったのだ。
市次郎が村のために働けば働くほど『一度死んでまで親孝行しに来た』と褒められるのに対し、『親を泣かせてばかりいる親不孝者』だと徳兵衛は貶められる。
それだけではない。
分家に男の子が二人いたら養子に貰えるのに、だとか。
もし弥次郎の子供が無事に生まれていたら佐奈と結婚させていた、とか。
自分の『物』にしようとしたはずの女が惚れ込んでいる男だ、とか。
この男は市次郎とずっとずっと比べられてきたのだ。
「連れていけ!詐欺師をうちの牢に入れておくんだ!」
男たちが市次郎を引きずっていく。
「何事だ!」
「市次郎!?どういうことだ、お前ら、やめるんだ!!」
慌てて駆けつけた藤一郎が止めようとしたが、力自慢の下男に一撃で殴り倒されてしまった。
「藤一郎さん!ああ…お紺ちゃん、加屋さん、誰か、誰か来て…!!」
佐奈が助けを呼ぶ。
「あー!!あーん!!」
ととさまーーーー
そう叫ぶかのように聞こえる悲痛な佐保の泣き声が、村に響き渡った。